イエスの死
                                          (2016年8月7日 東京聖書集会)
                                                 西澤 正文(静岡県)
▢はじめに
 東京聖書集会で共に礼拝するのは、2008年以来2回目となるが、緊張していてよく覚えていない。既に天に帰られ、わたしを導いてくださった堤道雄先生をはじめとする私を導いてくださった何人かの人達の目に焼き付いたこれぞ伝道者の後ろ姿を話したことを記憶している。今回、今年3月より清水聖書集会で学んでいる「ヘブライ人への手紙」を中心として話を始めたい。
▢至聖所に足を踏み入れたイエス  
 最近の学びで、「イエスは我々の先駆者として至聖所の内側へ入り、永遠の大祭司となられた」(ヘブライ6:19-20)の言葉が、とても深く印象に残った。イエスは土足で聖なる場所に入る実力行使をされた、そのように受け止めた。この箇所がマタイ、マルコ、ルカ各福音書に登場する「イエスの死」の場面、「イエスが息を引き取られた瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ福音書27:51)が想起された。今まで幾度となく、イエスの十字架上の死についての記事を読んで来たが、イエスが息を引き取られたと同時に、神が臨在される幕屋の一番奥にある至聖所、その大切な至聖所と他の場所を区別し、保護するための垂れ幕が引き裂かれてしまった。このことは、私自身、驚きであり、大きな意味が潜んでいることに気付いた。この2つが同時であったこのことの重要さを改めて教えられた。 
▢至聖所、垂れ幕とは?
 モーセは、エジプトを出発して間もなく、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」(出エジプト25:8)の命令を受け、幕屋(移動式幕屋)を建てられた。エジプト脱出時のイスラエルの民の数は、優に100万人を超えていた。モーセがカナンの地を目指し、多くの民を引き連れて荒野の旅をするには、あまりにも過酷であり、その裏に神の配慮があった。幕屋は、聖所と至聖所の2つの部分からなり、聖所は、祭司たちが、燭台(ろうそくの火を灯す台)を整え、香を焚き、供えのパンを替え、礼拝するために絶えず出入りする所、一方、至聖所は、大祭司だけが年に一度だけ(贖罪の日の7月10日)入ことを許され、大祭司本人と民の過失のために捧げるための血を携えなければ入ることが許されない所であった。この2つを隔てる垂れ幕が、イエスの死と同時に引き裂かれた。
▢何故だろうか…
 聖所の供え物、犠牲を捧げる行為、至聖所の1年に1度行われる大祭司による大祭司本人と民の罪を悔い改める行為が、共に儀式化し、形式化したもので不完全であることを示した。イエスの十字架上の死と同時の垂れ幕が除去された出来事は、至聖所が解放されたことを示す。そこに2つの意味があった。一つは、祭司と言う専門職は要らなくなったこと、もう一つは、どんな人でも、いつでも・どこでも、自由に神の前に立つことが許されたことである。
▢イエスの十字架上の死 そこで流された血=罪の赦しについて
 聖書では、我々が犯す罪について「血を流すことなしに罪の赦しはない」(ヘブライ9:22)と語る。何故それほど罪を考えるのか…。罪は、人間が創り主である神に対する背きであり、神は、妥協無しに我々に悔い改めを求められる。天地創造は、神の「光あれ」の第一声から始まり、第1日目は「昼と夜」を創造され、神はその出来栄えを見て「良しとされた」、第2日目は「空」、第3日目「海と土地」は、「良しとされた」と続き、最終の第6日目、最後の被造物「人」を見て、「極めて良かった」と感想を述べられた神。この「極めて」の感想から、天地創造の始めより他の創造物と比較にならない愛を人間に注がれていたことが解る。特愛の人間が、神に罪を犯すことは、神に対する責任が問われる。神はそれを黙って見逃すことはできない。その責任を負ってくださったのがイエスであり、十字架に登られた。 
▢結びとして
・イエスの死と同時の至聖所の垂れ幕が除去された出来事は、それまでの古い諸規定の全てが、イエスの死に飲み込まれ、新しい契

 約の時代に移られたことを示された。  
・至聖所は、特定の場所、固定した場所でなくなり、聖地と言われるエルサレムにも存在せず、神が臨在される至聖所は、「イエス

 の死」により、神、救い主キリストを信じる人の心に移された。「無教会精神、ここにあり」である。イエスの死は、イエス誕生

 と同様に賛美すべき極めて重要な出来事である。 
・罪が赦されたわたし達は、神、キリストの愛にどうこたえるのか、日々の信仰生活が、 常に問われている。「あなたの信仰があ 

 なたを救った」とイエスに賞賛された福音書に登場する人たちに、1歩でも半歩でも近づくことが出来るよう、「我らの国籍は天

 にあり」の御言葉を胸に秘めつつ、残された信仰生活を大切に過ごしたく思う。
<感想>
(中尾兄)聖書の総復習のようなお話であった。旧・新約のそれぞれの贖いについて考えさせられた。旧約の罪の贖いを身をもって

  実行したのはイエスであった。罪の赦しの信仰についてお聞きでき感謝でした。
(吉村姉)ヘブライ人への手紙11:1信仰とは…、アブラハムは、行き先も知らず出発した。この道を行く以外に道はない、それ

  がアブラハムの信仰であった。イエスも同様、十字架の道しかなかった。