―互いに優れた者と思いなさい―
       2015.7.4 下伊那聖書集会
 当日は、朝から雨降りであった。富士川沿いを走る国道52号線は、静岡県と山梨県の県境の峠を越えて間もない所に「400ミリを超えた場合は通行止め」の標識があって、ひょっとして……、と不安を抱え北上を続けた。それも心配ご無用で、中央自動車道の小淵沢に差し掛かると「中央道最高標高点1015m」の標識が目に入り、只大雨に遭わないよう祈るばかりであった。いつしか雨もやみヤレヤレと思えば、眼下には白い雲が流れているのを発見。本当に高い所を走っていることを実感すれば、予定通り9時15分に松川インターを降り、5分後には集会所である松下道子姉宅玄関にたどり着いた。都合のつかない方もおられ、参加者は5名、少ないなりに打ち解けた集会を持つことが出来た。今回はローマの信徒への手紙12:9-21節「謙遜と愛-互いに優れた者と思いなさい-」のタイトルでお話をした。
◎9-16 信者に対する態度
□愛と聞けば、とろけるような優しさ、温かさを感じることが多いが、パウロは愛に偽りがあってはならない、心の底から愛しなさいと説く。厳しい言葉であるが愛の裏には義、厳しさが存在する、との教えである。全てを包み込み受け入れるのではなく、悪、不義を徹底して憎むのが本当の愛である。人が、信仰に立ち義を貫けば、往々にして孤立しがちなになるが、この時こそ、友亡き友となり心の支えになることが、真の愛である。
 9-10「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」
□私が無教会の集会に参加し始めて感じたことである。無教会の2代目、3代目と言われる先生方が、西から東から静岡市、焼津市、清水市によく立ち寄られ集会を持つ機会に恵まれた。伝道活動によって生計を維持されている人はほとんどなく、神に背中を押され、地方の集会のために足を運ばれ、励まされた。宿泊場所はホテルでなく、俗に言う‟民泊“であり、集会に連なる兄弟姉妹の家庭であった。清水の場合は特別集会後、先生を囲み共に食事をしたり、歓談したりし、伝道活動の厳しさを肌で感じる機会となった。私にとって、今でもその講師の方々の後ろ姿が、大きな心の支柱となっている。清貧であられた先生、その先生を支えられた集会の先輩兄弟姉妹のおもてなしを通して、無教会の素朴さ、真摯な雰囲気が、今の私の大きな財産となっている。
 13「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
□前の3節では、「自分を過大評価せず、各自に与えられた信仰の度合いに応じ、慎み深く評価しなさい」とある。この御言葉を受けここでは、謙遜によって思いを一つとなることを勧める。得てして人は、この世の誘惑に弱く、自分より優れた人、より力のある人、評判の良い人に近づきたがる。こんな人間の貪欲さを消し、身近な人の思いに溶け込み、友になることを勧める。上昇志向でなく、横志向、下降志向を目指せば、その先に神がいてくださる。
 16「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
◎17-21不信者に対する態度
□クリスチャンの見出す人生の意義、価値の根幹は、この世とは正反対である。選択に迷った場合、困難な道、狭い道を選びなさい、あなたの敵を愛しなさい、心にわだかまりの残る友がいたならまず和解をしてから神の前に進み出なさい、肉親から嫌われることを覚悟しなさい等などである。イエスはこのことを想定して言われたのであろうか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和でなく、剣をもたらすために来たのだ。」と。(マタイ10:34) しかし、現実の日常生活は、小さな事、どうでも良い事は譲り、この世の勤めをこなし、悪でない限りこの世の習慣に倣い生活している。これがキリスト者の生きる知恵である。しかし、前に述べた通り、正義、不義にかかわることはどんなに小さな事であっても妥協してはいけないこと、これは小事でなく、大事である。感覚を信仰生活の中で研ぎ澄まされるよう願って歩んでいきたい。そして最終的な決着は、神様の審判に預け、心の平安を維持して歩むことが何よりも大切となる。
 17-19a「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」
◎まとめとして
 愛は、十字架上のイエスの御前に人を導き、己の罪を教え、自分の弱さ、小さき存在を知らせ、謙遜に生きることの大切さを教える。同時に、自分の考えでなく、神の導きにより純粋な真の心で愛することの大切さを重ねて教える。