マタイによる福音書15:1-20       2015.6.21

昔の人の言い伝え

 ファリサイ派の人達や律法学者たちは、イエスの活動が気になり、監視するために、首

都エルサレムからイエスのもとにやって来たのである。そしてファリサイ人達とイエスの間で、違いが鮮明になる。ファリサイ人が大切にするのは、昔からの言い伝え、人間の戒めであり、それに対してイエスは、神の言葉、神の戒め(掟)であり、決定的相違があること、そのことをイエスは、ここではっきり教えるのである。

2「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 

  ファリサイ派の人達は、何百年もの長期にわたり、人から人に語り継がれて来た言い伝えは、全て重要なものと考えた。多くの言い伝えは本質的に悪いものではない。食事の前に手を洗うことは、衛生的にも良いこと。特に今日の社会において、感染しやすい風邪が流行している時など手洗い、うがいを励行することは大切である。今日では昔以上に盛んに奨励している。しかし、言い伝えが長い間、社会の中で実践されて来たという理由だけで、重要なものである、と考えることは間違えである。長く引き継がれると行いが固定化、形式化しがちである。守ることが良いこと、守らないことが悪いこと、罪と見做され、地域によっては村八分となり、排除され仲間外れにされる。 

4「父と母を敬え」これはモーセ十戒に登場する神の重要な教えである。出エジプト記では、その戒めの後に「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」の言葉が続き、如何に父母を大切にしなければならないかを重ねて強調する。

5-6「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」 これは、「神殿に供え物をすれば両親の面倒を見なくても良い」という教えである。言うなれば、両親に十分な世話をしないための言い訳、口実である。現代に当てはめれば「介護放棄」である。ここまで来ると、神の言葉の前に、まず、人の言い伝えがあって、神の言葉より人の言葉を重視することが解り、本末転倒である。

8-9 イザヤの言葉 「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」

人間の戒めとは、人の言い伝えである。ファリサイ人、律法学者は神に関しよく理解している人達である。しかし、口では神を敬うと言いながらも、心は神から離れている。そのような人達の礼拝は、意味を持たない。キリスト教を学び、聖書を読み、敬虔に振る舞うだけでは不十分。ファリサイ人の戒め、教えは、人間の頭で考えたことであって、大切なことは、心から神を受け入れ、信じなければならない。  

11「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

 ユダヤ教の教えで禁止されている物を食べたからではなく、あなたの話すことにより人を汚すのである。

14「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 ファリサイ人は神の真理が見えていない人、「霊的な盲人」である。従って、ファリサイ人の教えを聞いた人も「霊的な盲人」となり、盲人が盲人を道案内すれば2人とも穴に落ちてしまうのである。

17-18「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」 

本当に人を汚すのは、口から入る食べ物ではなく、口から出るもの。口から入るものはいずれ体外へ出る。しかし、口から出るものは心の中から出る。悪い思いがあるから悪い言葉を発する。口から入る物は食べた人だけが影響受けるが、口から出る物は他の人に影響与える。人を傷つける言葉、悪い思いは、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹り等 相手の命、人権、人格を否定するものとなる。

 罪は、心の状態であり、言葉となり、また、行為に現れる。儀式や形式を行わないことが罪ではない。安息日を守ることは、ただ守ることだけにとらわれるのではなく、霊的に守られることが大切であり、形を重要視しない。

むすびとして

・イエスは、見えるものではなく見えない所、見えないもの、人の内

 面、心を大切にする。見えるものは一時的、見えないものは永遠に継

 続する。

・人を意識するのではなく、心を神に向け生活することを求める。

・神、イエスの教えは、形でなく本質、実質を大切にする それは人の

 命を守ること、幸せを優先する。また、言葉でなく具体的な行いを大

 切にする。言葉は心がなくても、また誰でも言える。行いに移すこと

 は、時間、労働(エネルギー)、金銭を捧げることであり、それなり

 に多くの犠牲が伴う。それなりの覚悟、決意が必要である。命を削り

 神にささげるのである。