ルカ6:1-26                     2018.4.22
テーマ:人の子は安息日の主である(5)
 安息日の意義については、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:2-3)等に登場する。
 麦を積むこと(1-5)や人を癒す(6-12)を禁止する。安息日が何のために定められたのか、一旦決まるとそのことを忘れてしまう。守る事それ自身が目的になり、形式化が進む。
 安息日の規定・目的は、休むことで神の栄光を表すことであり、神のみ言葉を聞き礼拝を捧げる日である。目的のためには手段が不動のものではない。目的と手段を分けて考えることが必要である。ある時には決まり事を守らなくてもよい。手段(決まりを守る事)は不動のものではない。 
 イエスは言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子(イエス)は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)そもそも、6日の労働を終え、安息日に礼拝を開き、出席することであり、そのことを通して、神と向き合い、静かな時間を過ごし、神から平安をいただくのである。小さな者、罪人であることを自覚すし、謙遜な心を呼び戻す日である。そしてこれからの新しい一週間を主と共に過ごすため、主の御言葉を心に呼び戻し、新しい1週間を新しい気持ちで過ごす準備の日である。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(5:38)のである。
 その後、イエスは、祈るために山へ登られた。12人の弟子を選ぶためであった。一人ひとりが本当に神から遣わされた者かを聴くために 夜を徹しての祈りが必要であった。 
 旧約聖書の古い慣例、決まり事を重んじる律法学者、パリサイ派の人々と安息日の考えが異なることがはっきりしたが、今後もっと激しい対立、衝突が起きる。それに耐えられる弟子を選ばなければならない、と考えたであろう。「イエスが山に登って、これと思う人を呼び寄せられると、彼らは傍に集まって来た。」(マルコ3:13)「これと思う人」を選ぶために、祈りが必要であった。  
 私達の背後にもイエスの祈りがある。私達は、今日キリスト信者であることにイエスの祈り、愛があったことを忘れてはならない。自分の勝手で信仰を捨ててはいけない。神に選ばれた自分を大切にすることを忘れてはいけない。自分が信仰者になったと思い勝ちである。私達に信仰を与えられたのは、イエスの徹夜の祈りがあったことをしっかりと覚えたい。また信仰の友、兄弟姉妹の祈りもあることを忘れないでいたい。
 20節以降は、イエスを信じる人の幸いである。この説教は、マタイ同様弟子を相手に話された。イエスの教えを守るものは必ずその後約束=報いを受ける者となる事を告げた。天国の民として特権を受ける少数の者の約束である。弟子達はこの世の冨を享受する人々でなく、貧しき者、弱い者であった。漁師、税の徴収人に過ぎない。来る日も来る日も汗をかき、身を粉にして働く人、肩身を載せまい思いをして働く人である。この人たちがユダヤ社会の支配層を相手にこれから新しい社会を築こうとする。イエスはこの状況を先取りし「貧しい人、飢えている人、泣いている人は幸いである。喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」と言われ、励まされたのだ。
 イエスは貧困な人を祝福すると同時に、24-25「富む人、満たされている人、幸せを満喫している人は不幸である」と言われた。この世で人生を謳歌する人々は天国や身近な隣人の悲しみ、苦しみの気持ち、姿が見辛い世界で生活する人であることを紹介された。
 光の子と世の子をはっきりと選別し、天国の民となる弟子たちにエールを送られた。  
🔲まとめとして 
 古い慣習に束縛されず、ただイエスの教え、福音を信じ受け入れなさい イエスがこの世に来られたのは、新しい世界をもたらす神からこの世に送られた救い主である。
 信者にとり、イエスがやって来たことは何ものにも比較できない圧倒的な存在。このことを改めて心にしっかりとどめたい。