ルカによる福音書 13:1-21             2018.10.14
テーマ:他人の不幸を悔い改めの機会とせよ
 人は、他人が不幸に遭うのを見て、それを、その人の罪の結果と考えることがよくある。そう考えて、自分が不幸や不運に遭わないのは自分に罪が無いためと考える傾向があるのではないだろうか。これは誤りであり、また危険である。他人の不幸は、たとえその人にそれに相当する充分な理由があっても、これを自身の反省材料とし、如何なる人も悔い改めることをしなければ亡ぶことを知らなければならない。まして理由のない不幸はなおさらであって、神は常に私たちの悔改めを望んでいるのではないだろうか。
総督ピラトにより殺害された人、シロアムの塔が倒れその犠牲になった人とは、あなたがたもその人々の中に含まれていると考えたい。第3者的な立場に立つのは、私は関係ないという態度である。実はこの態度が問題なのではないだろうか。いつも自分だけは違うといって、安全地帯に逃れ、罹災者を問題視する。そういう人は、悔い改めができない人、イエスの救いに預かれない人である。決定的弱点は、神、イエスの正面に出ることなく、常に他人事として傍観者でいることではないだろうか。
 冷静に考えれば、人は皆大同小異であって、ドングリの背比べをしているようなものである。しかし悲しいかな、人は、他人と比べたがり優位を誇りたがる。私たちは、皆、同じ神から生まれた人間である。競争したり、比較したりすることなく、手を差し伸べて共に生きなければと思う。弱い人間であるから共に生きなければならない。他人と違うと切り離してはならない。縁あって今(同時代)を生きる仲間である。
 近年、地球温暖化が進み、スーパー台風が頻繁に発生し、また、豪雨が多く発生している。待ったなしの二酸化炭素排出量ゼロが求められている。国境を越えた共に生きるグローバルな視点が必要である。
災害の警告をしたイエスは、続いてイチジクのたとえを話された。イチジクを世話する園丁がイエスであり、イエスを信じ受け入れれば救われることを願い、祈る。そして3年間待ったが実がならず、もう一年待ってほしいとご主人である神に願いを訴える。さらに肥料を与え、一生懸命世話をしますから待ってください、それでも実がならないなら切り倒してもかまいません、と。しかし結果は、実らなかった。これはイスラエルが悔い改めなかったことを意味した。結局、イエスは、エルサレムのために十字架に就かれた。
悔い改めを待つには忍耐が必要であるが、それ以上に、人の悔い改めは何と難しいことを教えているのではないだろうか。
▢結びとして
 最近、日本はじめ世界は、自然災害が多発し、多くの犠牲者が困難に直面していることが
連日のように報道される。自然災害は他人、他国のことでなく、明日のわが身、明日の日本である。特に私の住む静岡県は南海トラフ地震がいつ発生してもおかしくないと報道されている。自然災害は、自分自身のことと受け止め、神の守りを祈るしか術はない。常に神を畏れ、神に全面的に信頼している小さな者として生きているか、反省しつつ生活したい。