コリントの信徒への手紙Ⅰ10:1-33      2024.2.25

西澤 正文

テーマ:すべて神の栄光を現わすために(生活)しなさい(31)

 パウロは言います。偶像に供えられた肉を買い、家で食べる時、自分の良心のために果してこの肉はどんな肉だろうかと問う必要はない。何故なら天地万物は主の物で偶像に属する物は無いからである。また、不信者の家庭に招かれれば、パウロは、積極的に招きに応じます。何故なら、人間の社会的関係を築く事は大切だからです。この対応も前と同じく、良心の問題とせず、全ての物を食べるべきです。

 もし、誰かが「この肉は、偶像に供えられものです」と注意をしてくれる人がいたなら、その人のため、その人の良心のため、出された肉を食べるのはやめなさい。何故なら、弱い信者の良心を躓かせないため、遠慮してこれを食べないことは、他人の思いを優先し、自分の行いを制限したに過ぎないのである。他人の良心により自分の良心が審かれるのでなく、自分の良心は相変らずこれを食べる

 

自由が損なわれることはありません。自分の良心の独立は絶対です。だから、同じ様な問題があっても、信者の中に異った考えがあれば、自分の良心に従う自由を持つことをパウロは認めています。

 パウロの考えは、はっきりしています。食事の時、神様に感謝して食べることができれば、他人から、とやかく言われる筋合いはない、と。ただ一点のみ、飲食する場合、神の栄光を現わすようにしなさい。要は、パウロの考えはこの一点だけに集中しています。相手がユダヤ人であれ、ギリシャ人(外国人・異邦人)であれ、クリスチャンであれ、大事な事は、地上の全ての人々に対し躓きを与えないようにしなさい、ということです。パウロは、「すべての人を得るために全ての人の様になりました。福音の為ならば私はどんなこともします。共に福音に預かる者になるために。」(9:19)と、考え方は一貫しています。

▢まとめとして

 我達の行いは全ての人に見られ、話す言葉は全ての人に聞かれています。その時その場に於いて最も相応しい行い、発言ができるよう、我々の生活の全てが神の栄光を現わすことができるよう、常に祈りつつ生活しましょう。