ユダの手紙     2022.7.3

小田弘平 

 この手紙の著者は主の兄弟ユダ(マルコによる福音書6章3節)である。しかし主の兄弟ユダが紀元120年ごろまで生きてこの手紙を書いたとは考えられない。しかしこの手紙はキリスト教史では公同書簡として重んじられていた。なぜだろうか。この手紙は教会を脅かしていた異端者グル—プに対し、彼らを排撃し教会で語られてきた教えを擁護する役割をしたからだ。異端者グループは主イエス・キリストを否定した。

 それだけではなく異端者は神の恵みをみだらな生活にかえ、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらった。彼らは霊肉二元論の立場に立ち、肉体は亡びるが、霊魂は不滅であると考えた。それゆえ霊魂はこの世的なものには影響されないと考え、享楽主義に陥ったのである。

 イエスの福音はそのようなものではない。神は魂も肉体も神が創造された。教会の指導者たちはむなしいだまし事によって人のとりこにされないように

 

 

気をつけなさいと信徒に呼びかけた。そして彼らは悪の勢力に打ち勝つのかを模索した。その方法はただひとつ、「イエスが神の子であることを公に言い表す」ことだった。

 

 当時信徒たちは指導者の語るイエス・キリストの福音を耳で聞いて心に刻んだ。素朴な信徒たちは使徒の手紙を読むことができる人は少なかった。それゆえ彼らは信仰の核心を聞いて覚えたのである。覚えたことを口で言い表した。信仰を公に表明することによって、異端者の攻撃から守られたのである。こうしてできたものがやがて使徒信条となった。これを形式主義だと批判してはいけない。これは神の恵みだった。現代の私たちは聖書を読むことによって信仰を与えられる傾向があるが、紀元2世紀ごろの信徒の置かれた状況を知らなければならない。私たちは耳で聞いて信仰を与えられた先輩たちの遺産のうえに立っている。