「イエスの生涯その誕生と最期 

20131219日 愛農学園農業高等学校クリスマス礼拝 

西澤 正文(静岡県) 

 20135月徳島市開催の「四国集会」で愛農学園の村上守衛教頭先生にお会いする機会に恵まれた。「伝道会会報『通信』の特別企画で出来れば2014年春、貴校を訪問し取材させていただきたい」と依頼したところ、「分かりました」との快諾を得た。11月初旬、参考にしていただければ、と同じ高校である愛真高等学校取材記事が掲載された「通信46号」をお送りした。この交わりの点が線となり、今日のクリスマス礼拝のお招きを受けたが、全て神様の執り成しによると受けとめた。直木葉造校長先生と親しく挨拶を交わした後、クリスマス礼拝担当の堀内亨祐先生との打ち合わせを済ませ、約60名の生徒、20名の先生の前に立った。 

 

はじめに 

午前クリスマス礼拝、夜クリスマス祝会が学校行事として行われることは、国内では大変珍しいこと、何と素晴らしい学校だろう。今夜のクリスマス祝会を前に、今から皆さんとイエスの地上での歩みに想いを馳せ、イエス誕生を心から感謝したい。 

 

(1)イエスの誕生 

昨年の礼拝ではルカによる福音書2:1-7を学んだようですが、今日はその続きの8-20を学びたい。昨年はイエスが飼い葉桶の中で生まれた話をお聞きしたと思う。赤子の誕生する場所としては最悪であり、イエスはこの世の誕生の時からすでに居場所はなく、はじかれた存在であった。 

天使からイエス誕生を最初に告げられた人は、羊飼い達であった。この人たちもイエス同様、世ではまともに相手にされなかった。羊飼いの仕事は、野宿しながら夜通し獣、盗賊を見張り、谷に落ちたり群れから外れたりする羊を導き、常に目を届かせ羊の安全を守る過酷なものである。この世的には最も貧しい職業とみなされた。働き通しのため教会へも通う暇もなく、また定住地がないため決まった教会へ通うこともできず、行ったとしても教会から断られる人々であった。イエス誕生が告げられた羊飼いは、イエスの境遇に相通じるところがあり、また、イエスの最も愛される人々であった。 

イエス誕生を告げられた羊飼いは、早速ベツレヘムへ向かい自分達の目でその事実を確かめた。聞いたことを即座に確かめる羊飼いは、何て純粋で素直だろう。また、感動のあまりその熱い思いを自分たちの胸にとどめておけず、直ちに周りの人々に知らせた。そして神を讃え、神を信じる者となったのである。 

 

(2)十字架に至る道 

さて、イエスが神の御計画である十字架に至る道を歩む前に、地上での伝道の様子を少し考えてみたい。30歳頃までのイエスは、生まれ故郷ナザレの村で、父の大工仕事を手伝いながら、ガリラヤ湖周辺の自然に恵まれた緑豊かな環境の中で穏やかな日々を過ごした。そして30歳頃から公に伝道活動を始められ、その活動期間は正味3年間余りと短かかった。 

イエスは、行く先々で、多くの病人、障害のある人、貧しい人、孤独な人、物乞いをする人、悩みを抱えた人、世から嫌われた職業の人々に、奇跡の業を為し、救いの御言葉を分かりやすく易しく語った。イエスの評判が口コミで徐々に広がり、イエスの訪問先は多くの人の輪ができ、時間が経つにつれその輪が広がった。こんな中、時の支配者、有力者は、日を追うごとにイエスの動向が気になり、その影響力が疎ましく、いよいよイエスを抹殺しようとの考えにまで発展した。イエスはそんな様子を察知し、神の命じられた時の到来を悟り、エルサレムへ向かったのである。 

十字架の日が近づくと、12弟子と時を共有した「最後の晩餐」、同伴させたペトロ、ヨハネ、ヤコブの3弟子が眠り込む傍で血が滴るように汗をかいた「ゲッセマネの祈り」、人身売買した「ユダの裏切り」、筆頭弟子「ペトロの離反」、そして最後に群衆が登場。イエスの御業、御言葉の力に感動し、我らの救い主と慕い続けた群衆が、祭司長などの扇動に乗り「死刑にしろ」「十字架に付けろ」との「群衆の叫び」。これらの全てがイエスを置き去りにする行為であった。イエスはどんなに悲しかったであろうか。私は、この群衆に紛れこみ立っている自分の姿がちらついて仕方なかった。 

 

(3)最期 

マタイ27:27-31には、十字架に架かる直前にイエスが受けた侮辱の様子が描かれている。赤い外套に着替えさせられ、頭は茨の冠を置かれ、右手に葦の棒を握らされ、今流行のご当地イメージキャラクター人形よろしく即席の王様に仕立てられた。その前に屈み込んだ兵士が「王様、バンザイ!」と仰々しく挨拶をする。この馬鹿にした演技が終わるや否や、兵士の態度は一変し虐めに転じる。イエスの顔目掛け唾を吐き、葦の棒を奪い取り気の済むまで頭を殴り続けた。その間、イエスはじっと耐え、無言、無抵抗を貫くのである。私は、私自身どうしても納得できず心が穏やかになれない時、この侮辱されたイエスの姿を思い出しては冷静な心を保つことがある。 

 そしてイエスが十字架に架けられ、数時間後に神の御許に帰るというのに、両脇の罪人の一人の「御国においでになるときは、私を思い出してください」の声掛けに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と招くのであった。イエスは、息が途絶える直前まで一人でも多くの人を救おうとされた人であった。 

 

おわりに 

結びの言葉として、皆さんに2つお話ししたい。 

一つは、イエスの生涯は地上を離れる最後の最後まで人を愛されたのであり、私たちが振り向けばいつも両手を広げ待っていてくださる方である。決して来る人を拒まず、悔い改めることをいつまでも待ち続けておられ、イエスの愛の広さ大きさは計り知れないのである。 

もう一つは、クリスマスの意義で、クリスマスはイエスが誕生した日だけでなく、我々一人ひとりが十字架の前に立つ日であり、イエスに従う人として新しく生まれ変わるチャンスの与えられたことに感謝する日である。