ローマの信徒への手紙3:21-31                                        2016.10.16
主題:信仰による義
▢はじめに
前回、「律法は罪の自覚しか生じない」(3:20)ことを学んだ。ここで、律法について整理すると、律法は、聖であり善いもの、また正しいもの(ロマ7:12)、人は律法を守れない(ロマ7:15)、律法は罪を自覚させるもの(ロマ7:7)、イエスは律法の完成者(マタイ5:17)等と言われる。様々な観点から律法について述べられている。
▢イエス誕生、そして死について
 旧約時代、「信仰の父」と言われたアブラハムは、妻を「私の妹です」と嘘を言い、イスラエルの二代目の王・ダビデも「バトシェバ事件」で人間的な行動に出て罪を犯した。そして新約時代に入り、イエスからすべての人に向かい「みだらな思いで他人の妻を見る者は心の中でその女を犯した」(マタイ5:28)と言われれば、誰もが自分自身を罪人と認めざるを得ない。
 神の独り子・イエスが、人間の姿になられてこの世に誕生し、34年の短い生涯、神の使命を全うし、神がおられる天国へ帰られた。イエスは、弟子たちに予告した通り、エルサレムで十字架刑を受け、そして、三日後に復活した。人類の罪を買取り十字架上で最期を迎えたイエスは、最初から最後まで神の御心のまま歩まれた。真に「死に至るまで従順に歩まれた」のである。
▢イエスの死により無償で与えられた義
 全ての人は、どんなに奮闘努力しても、義人にはなり得ないことを悟り、万策尽きお手上げ状態のところで、イエスの十字架上の死が我々に救いをもたらした。「ところが今や…」(21節)の今とは、イエスの十字架上の死である。これが分岐点、大きな節目を迎えるに至った。イエスの死後、律法に関係なく神の義が示された。信じる者全てに神の義が与えられた。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされた。無償とは、神からのプレゼント、賜物である。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8) 神の御前で義となりうるには、神がわたしたちに恵みが贈り物として届くようにしてくださったことで、私たちが犯し続ける罪、この罪を買取り、我々の身代わりとなり十字架に昇り、死んでくださったイエスにより、罪が帳消しにされた。一方的な恵みである。罪の贖いは、イエスキリストの十字架によるものであり、私たちが何かを成し遂げて得たものではない。自分が受けるに値する行いがあったからでもない。神の義であって、あくまでも神からの一方的な恵みであり、私たちが自分で得た義ではない。誰一人として神から何かを受けるに値する人はいない。神がわたしたちを愛されるが故に、御自分の御子を犠牲にして、私たちはその犠牲にされた御子を信じることにより義とされ救われるようにしてくださった。 
▢むすびとして
 イエスが地上を離れた今日、私たちは、信仰により、律法を無にするのでなく確立する。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ書2:20) イエスと共に、聖霊と共に生きる、この御言葉を信じる信仰を与えられたい、求めて生きたい。その為にも、祈りのある生活を送りたいものである。