ヘブライ人への手紙10:1-18                                 2016.7.3
▢律法による犠牲の不完全
 律法は、新しい契約に登場するイエス・キリストの影を映すだけであって、律法自体にキリストの働きはない。そのために、律法は、祭司や祭司長が、聖所・至聖所に入り、神にいけにえを捧げ続けても、その人たちを、罪が取り除かれて清い人にさせることはできない。もしできたとするならば(=動物の捧げ物が有効ならば)、礼拝する人たちは、清められたという自覚が生じ、それ以降、繰り返し罪を清めていただくためにいけにえを捧げるようなことはしない。しかし実際には、いけにえを捧げていて、その都度、罪の自覚が生れるのである。これは何を意味するのだろうか? 動物の血を捧げても、罪から解放されないということである。
 神は、犠牲や捧げ物を重要と考えず、そのためにイエスをこの世に誕生させた。また、罪を取り除くために神殿に捧げる動物やいけにえに、あまり関心を示されなかった。「サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす捧げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声(御心)に聞き従うことではないか。』」(サムエル記上15:22)
 御声、御心に従うとは、神、イエス・キリストと人格的な交わりをすることである。イエスが十字架で召された後、聖霊(弁護者)となり、弟子たちと共にいてイエスを証された。キリスト教の最大の特徴は、信者が、神、主キリストと人格的な生きた交わりをするである。 
 祭司たちは、キリストが地上に誕生するまで、毎日、罪を取り除くことのできないいけにえを捧げ続けた。しかし、イエス・キリストがこの世にやって来て、イエス御自身がいけにえとなり捧げられた。そして地上を離れ御国へ帰り、神の右に御付きになられ、現在もまだ、神に反逆する勢力が配下に収まるその時が来るのを待っている。
すでにイエスの十字架の死によって、罪が贖われ、赦しがある以上、もはや罪のための捧げ物は、必要がなくなった。旧約による祭司制度も礼拝の行われる聖所も、全く必要でなくなったのである。キリストのただ一度の犠牲ですっかり罪を清められたのであるから、もはや何の心配もなく、大手を振って神の前に出ることが出来る。
▢まとめとして
 犯した罪を清めていただく、赦していただく。それがこれからも継続的に絶えずなされていく。徹底して神、主イエス・キリストに求めていく。苦しみ、不安、悲しみ、等々、誰はばかることなく訴え、叫べばいい、愚痴ればいい。切に求めることを神は喜ぶ。 
 儀式、供養など、形式を重んずる行為・お勤めは一切要らない。必要なのは神に従う誠実な心、自分自身の十字架を背負い神、主イエス・キリストに従う強い意志である。祭事の専門職、キリスト教の祭司、至聖所の垂れ幕、これ等はもういらない。
 神と私の1対1の直接関係を維持し、常に「天のお父様」と呼びかけて歩みたい。天国
の父を徹底して求めたい。嘆き、悲しみ、感謝し、委ねたい。