ヘブライ人への手紙2章                     2016.4.3
▢イエス・キリストの救いに対し、むとんじゃくでいいか? 
 「わたしたちは、これほど大きな救いに対して、むとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」(3節)
 御子イエスがこの世に遣わされ、新約の時代に至った現在、救い主イエス・キリストにより私たちの罪が贖われ、一方的な恵みにあずかっている、この福音を心に留めなければならない。
 イエスが誕生し、公の伝道活動をして間もない頃、イエスの教えを聞きながら感化され
ていたが、イエスの後に付き、従う信仰から離れてしまう危うさがあった。その人たちは、福音を聞いてはいたが、福音と言うものがどういうものか、まだしっかりと受け止められないでいた。
  「イエス・キリストが主」であることは聞いて理解は出来ても、イエス・キリストの弟子となり、従うところまで信仰的に成長していなかった。実生活の中でキリストに従い、生きる世界と礼拝の場所が分離した生活であった。このような生活は、聖書を読み学び、礼拝が終われば元の自分に返ってしまう。そのような生活は旧約時代、天使の活躍した時代と何ら変わらないものである。イエスの語られた御言葉を聴き、それを実行に移すまでの信仰に成長していないのである。
  「神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。」 福音は、御言葉で語られるばかりでなく、御言葉に伴うしるしと不思議があって伝えられる。福音は人間が一方的に知恵を尽くし、論理を尽くしても、それだけでは駄目であって、そこに神の顧みが介在しなければ、人に伝えることはできない。キリスト教は、こういう宗教です、と人に伝え、理解してもらうことはできる。しかし、私たちがどんなに言葉を尽くし、話すだけでは、人を悔い改めさせること、キリストを信じさせることはできない。
 御言葉に伴うしるしが必要であって、神が御言葉と共に働いて下さらなければ、私たちの信仰は、どうにもならないのである。神から直接受けたメッセージを語るだけでなく、そのメッセージを語る時、聞かれる人々に聖霊が注がれるよう、また、御言葉を語る時、その語る人に神の力を与えられ、聖霊が注がれて語ることが必要である。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリント信徒への第一の手紙3:6)神の力、聖霊が注がれなくては、信仰が根付き成長することができない。
▢まとめとして
・新約の時代に生きる我々は、地上にイエスが誕生し、福音の世界に生きている。イエス・キリストを救い主として受け入れ、私たちの罪は、イエスが私たちの身代わりとなって十字架に架かられ、罪赦された者として心から感謝し、日常生活の中で、何度も何度も「十字架上のイエス像」を思い出しながら生活していきたい。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えられながらも、人を愛する前に自分を愛し、自分に甘く罪を犯しても罪と思わず流してしまったりしながら毎日生活している。しかしイエスに出会ってから、教えを実行できないことを強く意識するようになった。これは大きな恵みである。イエス像を思い出すと、私自身の罪の身代わりとなり十字架上に上がったのであることを自覚させられる。いつも、どんな時もこのイエスの姿を思い出し乍ら、生活したい。