天国における神の婚宴への招き
                                   -マタイによる福音書22:1-22より-    2015.11.1
 この婚宴への招きは、イエスがエルサレム入城後の第3のたとえである。
神がイエスを遣わせたのに、人類の中で最初に招待を受け、愛されているユダヤ人が、それを受け入れず、預言者の言葉に耳を傾けず、ただ自分の事だけ考え、畑に、商売に出掛けて行った。イエスは、このことに対し、神の怒りがどんなに大きいかを語られた。王は神、王子はイエスであり、婚宴は天国が完成した時の喜びと言われている。
 昔のユダヤには、宴席の準備が整うと、予め招待した人々(=ユダヤ人)を呼びにやる習慣があった。このたとえは、神が予言者たちを遣わして、ユダヤ人たちを何とかして天国に入れようと苦労されたお話しである。 
 王である神は、自ら手を掛けて大事に育て肥えた家畜を並べ、すっかり食事の用意を整え、婚宴を催した。それにも拘らずユダヤ人は来ようとしなかった。ある人は畑へ、ある人は商売に出掛けて行った。この世の仕事に一生懸命であって、神の招待は二の次に考えていた。 
このたとえは、そのまま私たちの集会参加の姿勢に通じるものがある。神は、天地創造の仕事を終えたことを祝し、その日を他の6日間と区別し、特別な日、聖なる日とし、神に捧げる日とした。それなのに、私たちの周辺には、このたとえと同じように、主日礼拝に誘っても、仕事があるから、用事があるからと言って誘いを断る人が多くいる。神自らが供えてくださった婚宴としての集会に出席しないことが多いが、これは今も少しも変わらない。 
 福音は、この世の仕事が一段落し、暇な時に聴こうと思っていては、絶対に聴くことはできない。救われたいと思うならこの世の用事を断ち切り、時間を作らなければならない。もし招かれたら、自分を捨てなければ、神の婚宴の招待に応えていくことはできない。ユダヤ人たちは自分を捨てることが出来なかった。
 イエスは言った「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)と。私達は神の招きよりも、人から憎まれ、悪口を言われ、村八分にされることを恐れる。しかしそれを捨てなければ神の招待に応えることはできない。命に至る道は狭いのである。
 神の婚宴の招きに応じなかったということは、神の前に罪を犯したことであり、神の裁きに遭う。(7) 歴史的にも神を捨てた民族は滅び、ユダヤの国(南ユダ)は紀元前587年にバビロンにより滅ぼされ、起源70年にはエルサレムがローマ軍隊により焼き滅ぼされた。 
王は、ユダヤ人に見切りをつけ、家来たちを異邦人たちの住むところに遣わせ、善人も悪人も集めさせた。その中には善人も悪人も、兎にも角にもいろいろな人が集まった。
 これは、天国に入られるのは善人だけとは限らず、悪人であっても天国を望み、自身の罪を認めた者は天国に入れることを示唆している。その中に「礼服を着ていないものが一人いた」(11)ことが描かれている。一人だけ着ていないということは、他の者は皆着ていたということである。このことから、王が婚宴に招く時、宮廷の入口で礼服を貸してくれる仕来りになっていたと言われている。貸してもらう礼服はイエス御自身である。我々は、元々罪人であるからそのままの状態では、神の前に出ることはできない。罪を取り除いていただき、キリストの義をまとい、はじめて天国の婚宴に参列できるのである。その中に、一人だけこのキリストの義をもらう必要を感じない人がいた。その人は、この世的に、自分は正しく、婚宴の席に着くのに改まって悔い改める必要はないと思っていた。それが王の怒りを買い、放り出された。
 「王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(13-14)
むすびとして
 天国の婚宴は、神が主催する場である。この世の延長の気持ちでは、入場できない場である。私たちも、毎週日曜日開催される主日礼拝の会場に臨む時、この世の雑念を払い、新しい心を備えなければならない