ルカによる福音書5:1-16                2018.3.25
テーマ:お言葉ですから、網を降ろしてみましょう(5)
  イエスがゲネサレト平原(ガリラヤ湖西北岸の平野)、つまりガリラヤ湖の西北の岸辺に立ち、群衆を相手に「神の国が間近に迫った今、悔改めて福音を信じなさい」との神の御言葉を語り終えたイエスは、群衆と別れた。そして舟の持ち主である漁師・シモンに、舟を沖に出し漁をするよう促した。
 イエスの指示をお聞きしたシモンは、「先生、私たちは夜通し漁をしましたが、全く獲れませんでした」と、漁師のプライドもあって、はっきりとした口調で説明した。しかし「そうまでおっしゃるなら網を下ろしてみましょう」と、イエスの御言葉に素直に従った。すると、漁師たちの予想に反し、網が破けそうになるほどのおびただしい魚が網一杯に満ち満ちていた 舟一そうでは引き上げることが出来ず、もう一そうの舟の応援を頼んだ 二そうの舟は沈みそうなるほど魚で一杯になった。
 シモンの「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」(5)が、とても大切な言葉であり姿勢である。この言葉は、今日の学びのキーワードである。「その通りにした」ことが、大切なポイントである 約束を信じ、実行したことがシモンの信仰の原型となった。
 長年の漁師の経験に反し、沢山の魚を手にした出来事におどろいたシモンは、直ちにイエスの足もとにひれ伏し、慌てて申し出た。「主よ、わたしから離れてください わたしは罪深いものです」 するとイエスは、シモンに言われた「恐れなくてよい 今後あなたは人間をとる漁師になる」と。これをお聞きした漁師全員は、舟を湖上から引き上げ、すべてを捨ててイエスの御後に従った。
 シモンの一変した態度は何かきっかけがあったのか。群衆が、イエスに神の御言葉を求めている時に、シモンは背を向け、仕事をする人であった。態度が一変したのは、一つの事実、つまり、イエスの言葉に従って魚が沢山獲れたからである。来る日も来る日も湖に出て生計を維持して来た熟練の漁師であったシモンには、考えられない事で、人知をはるかに超えた出来事に直面したからである。 
信仰生活は、人知を超えた神の力、働きに触れることではないだろうか。信仰は、神の御力、働きを実感できた時に始まる。私たちには神が必要とか、信仰生活をすることがよいとか、いろいろあれこれ考えたり、議論したりすることが、信仰の原動力にはならない。 神が私に迫って来たから信仰せざるを得なくなる、福音を語らなければいられなくなるというものが、私たちの中に起こされてくるところに信仰の原点がある。 
 シモンのイエスへの呼び掛けは、「先生」(5)が、「主よ」(8)に変わった。このことからでも、シモンの支配者、救い主の意味がこめられ、畏敬の気持ちが込められていることが理解できる。 
 イエスはシモンに言われた。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10)と。内村鑑三は言われた。「人をとる網は何か、それはただイエスの御言葉あるのみである。」と。
 12節以降は、癒しは神の力の事実である。イエスがある街におられた時、そこに重い皮膚病=癩病にかかっている人がいた。この人は、イエスの姿を見てひれ伏し、言った。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。イエスは、この言葉に感動し、手を差し伸べてその人に触れ「わかった 清くなれ」と言われた。するとたちまち重い皮膚病は治り綺麗になった。癩病人の素晴らしい信仰が、垣間見える。イエスを拝見すれば、直ちに「ひれ伏し」イエスへの信頼、そして治していただきたい熱いがにじみ出る。
 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12)癩病人のこの言葉には、イエスの病を治す力があることを信じていた証しである。「治してください」と願わず、イエスの判断に委ねた。癩病人の信頼する信仰と従順の態度がイエスに届き、イエスはその姿勢を喜び「よろしい(分かった)」と応答し、「清くなれ」と病に命じたのであった。当初、私は、この箇所を読んだ時、癩病人の言葉が理解出来なかった。しかし、この人の言葉は、イエスを信頼する気持ちであることを知った。
🔲まとめとして
 シモンの心の変化の始まりは、イエスの御言葉に素直に従ったことである。魚が溢れるほど獲れた出来事を体験したシモンは、目からうろこが落ち、イエスの実体、御力がはっきりと分かった。
 わたしたちは、神の御業、御力が、本当だろうか、嘘でないだろうか、と迷うことの多い信仰生活を送っているのが現実でないだろうか。信じ切れないこのような生活は、シモンのような驚く出来事に直面することはできない。シモンのように御言葉に素直に従うことが出来るような、心の内の変革が必要である。大事なことは、言われた通りにすること、そうすれば神の力を知ることができ、神がいらっしゃることが確信できる。今も生きておられる神様の存在を体感するためには、推測でなく素直に実行することである。