マタイによる福音書12章1~21節 安息日論争

      2015.4.12

 ある安息日の出来事であった。イエスはのんびりと弟子を伴いのんびりと次の町へ向かって麦畑の中を歩いていた。

1-8節安息日に麦の穂を積む

12「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った。」

 これはファリサイ派のイエスへの戦線布告の言葉である。安息日の考え方の違いを浮き彫りにした。弟子たちは、空腹を満たすのであれば許されていた他人の畑の麦を摘んで食べた。ファリサイ人は、「安息日」であるから摘んで食べることは、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記2010)と捉え、断固反対であった。イエスはこのファリサイ人の質問に「私の求めるものは憐みであり、いけにえではない」とサムエル記の御言葉により答えた。殺した家畜を祭壇に捧げるお決まりの神事よりも、目の前の困った人を救うことを優先する考えを伝えた。神殿に関する様々なお決まりの行為は、常に抜かりなく継続することが目的化し、それ以外は受け付けられない排他性を帯びる。我々もこの傾向に陥らないように注意したい。

9-14手の萎えた人をいやす

ファリサイ人達は、日に日に群衆の中で影響力が大きくなるイエスの動向が気になり出し

た。イエスがある会堂に入ると手の萎えた人に出くわした。その現場をとらえまたもやイエスに質問を投げかけたのだった。

10「「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と。すると、イエスは具体的な

事例を示し明確に答えた。1112「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが

安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。 人間は羊よりもは

るかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」イエスの考えは、たとえ安息日であっても良いことは良いことはしていい、この一語に尽きる。羊を助けて良いのならましてや人の病気を治すことは許される。イエスのみならず常識ある人の考えである。律法と言う決まりごとのみに縛られるひとは、生活環境の目線が閉ざされて、現実が見えにくくなるのである。

15-21神が選んだ僕

 イエスが安息日に手の萎えた人を治したことが、ユダヤ人の怒りを買い、彼らはついにイ

エスを殺すことを考えた。それを知ったイエスはそこを去った。イエスには、神から託され

たこの世における使命を果たさなければならず、まだ命を落とすわけにないかないと考えた。

19-20彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」 イエスは偉い人には救いを説かない。貧しい人、病の人、罪人、世から疎んぜられ孤独な人、このような人々の所へ出かけていく。また、人目を避け目立たないところで人々を救う。イエスはこの世で目立つことを好み、名声を得ようとする政治家でなく、また、この世を改革しようとする社会活動家でもない。自身の地位、名、力、富、健康すら顧みず、ひたすらこの世で弱った人びとを労り、力づけることに徹した。人のために働く人は、自分をなくす人である。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ信徒への手紙2:20)

まとめとして

・人間社会におけるルール、決まりごとは、人々の幸せのため、社会の安定のために作られたものである。人々を拘束し、人々から離れたものであっては意味がなく、無用の長物でしかない。

・イエスは、常に救いを必要とする人の所へ訪ね歩き、労を惜しまぬ。我々も己を捨て、救いを必要とする人のためにイエスの後に従いたい。