ロマ書4:1-25                  2016.10.23
主題:アブラハムは何を得たのだろうか。(1節)
アブラハムは主を信じた。それが義と認められた。
 行いによって義とされたのであれば、自分の行いを誇ることができる。しかし神は、人の行いを求めてはいない。求めていれば、神は無用となる。行いにより望みが叶えられれば、神は要らない。聖書は何といっているのだろうか。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6) 
 「義と認められる」のは、律法を完全に守ったとか、道徳的に正しい振る舞いをしたことを意味しない。ただ神の言葉を信じたこと、これが義と認められる。このことが義と認められる唯一の条件である。つまり、アブラハムの神に対する態度、信仰がよしとされたのである。
▢義と割礼の関係
 義が与えられるのは、割礼の有無は関係ないものである。アブラハムが、義と認められたのは、アブラハム自身の信仰によるのであり、割礼は関係ないものであった。認められたのは割礼を受ける前のことであった。契約の後、アブラハムは、契約の徴として割礼を受けた。「わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(創17:9-11)アブラハムは、割礼を受ける前に義と認められ、すべて信じる者の父となり、また、自身割礼を受けたことで、割礼を受けた者の父となった。
▢アブラハムは私たち信者の典型
 アブラハムは希望を持てるような根拠は全くなかった。年齢はすでに100歳を迎え、体力はなく、妻も高齢となり子を産むことは不可能であることは十分に知っていた。にも拘らず、希望を捨てず、失うことなく、信仰を固く維持し続けた。むしろ信仰を強められた。(20節) 神は必ずや約束を果たされる方であると確信した。ここに、アブラハムの信仰の真骨頂が見える。常識では望みえないのに、尚も望みつつ神に導かれた。よって「主はそれを彼の義と認められた。」のである。
▢結びとして
 現代の私たちはどうなのか。アブラハムから今日まで4千年(紀元前2166年誕生)が経過し、2千年前、神により独り子・イエスをこの地に迎えた。イエスは、我々の罪を買取り、身代わりになって十字架に架かり、私たちを義とするために復活された。このことは、アブラハムが、高齢を迎え、死んだに等しい体であったにもかかわらず主を信じたように、今、我々は、イエスを死者の中から蘇らせた方を信じるかどうか、「我々の信仰による義が認められるかどうか」、問われているように思う。
 世界史の中のキリスト信者の偉業を思い起こした時、旧約のモーセ、ダビデ、ヨブ、新約に入りペトロ、パウロ、現代に至り、ゴルべ神父、キング牧師、マザーテレサ、国内では内村鑑三、身近な水野源三、星野富弘など、それぞれの分野、立場で多くの人々に信仰に基づく大きな影響を残された。アブラハムは、と言えば、神様を信じる人間であり、特筆すべき業績は残らなかった。神様を信じる人間それだけで、神様に良しとされた人間であった。しかし、実際に神様を信じる人間である、ということはたやすいことではない。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19:13-15) 私たちは、簡単に自分を捨てられず、幼子のように素直になれない。見栄、プライド、世間体、固定観念等、簡単に捨てられない。素っ裸になれない。本当に心の貧しいものとなり入れない。心の中に自分に頼ろうとする何かを残してはいないだろうか。神様に隠し、こっそり、万が一の場合の備えとして自分だけの拠り所を心の片隅に確保していないだろうか。
 イエスは、湖上の荒波でアタフタする弟子たちに向かい、言った「あなた方の信仰は何処にあるのか」と。(ルカ8:25)これは私への言葉でもある。
 先のモーセを筆頭とした世に立派な業績を残した人々の原点は、アブラハムの信仰である。「主を信じた信仰」があった。神様は、御自分を信じる人間をこそ喜びとし、豊かな恵みをもって報いてくださる。これぞ福音の真髄である。信仰の父・アブラハムの後姿を見ながら前に進みたい。