いずみの森聖書集会     2018.9.23

 

 9月23日秋分の日、3連休の中日の訪問となった。府中駅前にある新築したばかりの大きな複合施設が会場であった。スッキリとしたしゃれた施設で、休日の朝9時過ぎには多くの市民が、広いオープンスペースで談笑したり、勉強したり、PCを眺めたり、思い思いの休日を満喫していた。会場の新しさに倣い、私達も新しい気持ちで礼拝の席に着くことができました。今回、神に招かれた者として」のテーマで約60分話しをしました。

 □はじめに……聖書と如何に向き合うか 

(1)聖書は「キリストの言葉」を聴くことから始まる

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17) パウロは、キリストの言葉を聞くことの大切さを言われた。キリストの言葉とは、福音書中、イエスの話された言葉であり、この言葉が中心となり、弟子をはじめ、病人、悩める人、貧しい人、孤独な人、群衆、ファリサイ派・律法学者等々のやり取りが描かれ、イエスの福音宣教の様子が記される。イエスの御言葉を我々はどう受け止めていくか、が信仰の原点であろう。

 (2)聖書は、私一人に語る

 神は、私に語られる。皆でなく、一般でなく、わたしに書かれたものとして受け止める、それが聖書の読み方であり、そういう姿勢でないと心に響いてこない不思議な書である。

  神、イエスから名前を呼ばれた人は、「はい」と応えなければならない。イエスから呼びかけられた人達がいる。漁師のペトロ、アンデレの二人は、すぐに網を捨てて従った。収税所に座っているレビ(マタイ)は、立ち上がって従った。イチジク桑の木の上の徴税人の頭ザアカイは、急いで降りて来て、イエスを家に迎え入れた。 

 イエスに声を掛けられた者は、時に、家族を捨てる、自分の将来を捨てることを迫られる。信仰は、信じるか、信じないかの二者択一を迫る。神と私、神とあなたの一対一、徹底して主観の世界である。我々も聖書の世界の中に足を踏み入れ御言葉に耳を傾けたい。

 □主から声を掛けられた聖書に登場する5人

 サウロは、キリスト信者を迫害する急先鋒として励む毎日であったが、ダマスコに着く直前、光に照らされ、イエスから「サウロよ、サウロよ」と声が掛かった。シモン・ペトロは、復活されたイエスから、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と、3度知らないと拒んだことを思い出させるかのように3度呼ばれた。アブラハムは、我が子イサクを捧げ物にしようと殺す瞬間「アブラハム、アブラハム」と声を掛けられた。ヤコブは、歳を重ねこの世を去る日が近づき、特愛のヨセフに会えず悲しむ日に「ヤコブよ、ヤコブよ 私はあなたの神、エジプトへ行け 恐れるな」、との声を聞いた。モーセは、燃え上る芝の中から「モーセよ、モーセよ、わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出せ。私は必ずあなたと共にいる」と、神の声を聞かれた。 

五人は皆、神・イエスから個人名で繰り返し呼びかけられ、「私に従いなさい」と指示を受け、従った。 

□「あなたたち」不特定多数の人達 

 その一方で、聖書は、「あなたたち、不特定多数の人達」の信仰が弱く、頼りないかを示している。マタイ23章、ルカ11章には、「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」の見出しで記載されているが、これは、律法学者、ファリサイ派の人々に対する非難でなく、私達すべての人に対する教えである。

聖書は複数、不特定多数の人に語ることが多いが、「あなたたち」の中に、自分は含まれていない、と他人事のように考える。しかし実際は、あなたたちの中に私も含まれているのである。

 

 

  

イエスは指摘された。外側はきれいだが、内側は強欲、悪意に満ちている、見える捧げものに励むが神への愛、忠誠は疎かだ、人目につくことに心が向いている、と。

手を胸に当てて考えれば、我々に言っている内容であるとは、誰も分かる。心当たりがある内容ばかりである。イエスが眼の前の人達を非難する場合、我々はその中に自分を外し、他人事のように上手に聞き分けていないだろうか。

  福音書のクライマックスであるイエスの逮捕の直前、弟子は皆、イエスを見捨てて逃げ出した。十字架に着く場面で祭司長、長老に扇動された群衆は、「十字架につけろ」の大合唱でイエスを十字架につけてしまった。あなたがた、群衆、弟子達、これらの人達は、主体的態度のない者の姿を示し、信仰は、如何に主体的態度が大切さを教える。

  私を不在として聖書を読むことは、いつまで経っても、また、何度読んでも、イエスの言葉が、心に到達しない。宗教は個人的であり、神と私の1対1の主観の世界である。他人の目線を気にしていたら、信仰は芽生えず、育たない。

 □むすび

  私たちは、今、礼拝の輪に招かれ参加が許されている。これは神から、イエスから、直接呼びかけられたことであり、真摯に受け止めなければならない。招かれた者は、神から「あなたは、私に所属する人」であり、「これは私のもの」と言われたところに価値がある。 我々は、招かれ、愛され、清められた者、我々の背後に神がおられ、神によって選ばれた者です。我々はつまらない者かもしれない。しかし、神が招いてくださったところに誇りがある。招かれた者の自覚は、神に立ち返る私たちの原点ではないだろうか。

  

-出席者の感想-

 (永井姉) 「『わたし』に語っている神の声を聴くこと。集会でも神に招かれた者として緊張感をもって臨むこと。学ぶだけでは聖書知らずで終わる。」とのお話で、基本的なところに常に立ち返ることの重要性をお聴きできました。また、お話にありました信仰は二者択一ということでは、ペテロが「あなたはわたしを愛するか。」と度もイエスに問われたように私にも「あなたはわたしを愛する(従う)のか、この世を愛する(従う)のか」と問われています。その都度、講師の言われた「あなたはわたしに属する者」と言ってくださっている神様の愛を思って立ち返ることができるのは、まことに感謝であり喜びです。

(大田姉) 聖書はイエスの言葉が中心であり神にどう向き合っていくか、自分に語られているように感じられた。今後、肝に銘じなければと思う。イエスは、一人一人に対し呼び掛けてくださっていることをよく覚えていきたい。

 (小林姉) まだ日が浅い者です。聖書に向き時はどういう時か、私自身「あなたたち」に語りかける時、逃げている。それをイエスは見抜かれていた。今後肝心な時、逃げ出さない勇気を学ぼう、と感じました。

 (陳野兄) 講話は冒頭ロマ書10:17を中心に「キリストのことばを聴く」ことの大切さを語られる。次いでシモン、アンデレ、ザアカイさらにペトロ、パウロたちの名をあげ、これらの人たちはそれぞれキリストから直接呼びかけられたことを考えてみましょう。また、聖書に「あなたがた」のことばが数多く出てきます。その時他人事と思わず自分のことと受け止めて読む。主体的に向き合うことです。救われた者として喜びをもって使命を果たしたい。