静岡クリスマス講演会 12月19日        西澤正文                                        

 

今年も、清水港、伊豆の山々、そして富士山を眺めることのできる会場で開催することが出来た。当日の出席者は25名と例年に比べ少なかった。しかし未信者が7名と多かったのが救いであった。このような人たちのためにも、今後神の御言葉を解りやすく語り続けていきたいと思う。以下講師2人の講演内容を記す。

 

(1)「いつも喜んでいなさい」(西澤正文)

 

一年の締めくくりに、また来る新年を迎えるにあたり、少しでも明るい気持ちになり、精神的重荷を軽くできれば、との願いからこのテーマを選んだのであった。年間自殺者数、完全失業率、若年層の非正規雇用率と年収、年間の医療機関受診精神疾者数、国の負債額など具体的な数字により、我々、特に若者を取り巻く環境がいかに厳しいものであるかを検証した。

 

 私たちは、悩み、苦しみに直面するとあれこれ悩み続けるものの、結局解決策が見つからず、深い闇の世界にさ迷う。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章)のイエスの教えに倣い、自分の腹を見詰め続けることを断ち切ることである。根本的解決策はただ一つ、絶対者である神への全面的信頼である。この神への信頼から安らぎの風、聖霊の風が心に流れ、いつしか心は喜びに包まれるのである。

 

(2)「信ずる者は慌つることなし(イザヤ書28章)」(土屋聡氏) 

 

 当時、民を治める王は人間を恐れてエジプトやアッシリアと条約を結び、協定をすれば力となるように思っていた。人間は、頼りにならない者を避け所や隠れ家にしようとしており、当てが外れると右往左往し慌ててしまう。サタンの試みに耐えてきた石を土台として信ずる(依り頼む)者は、慌てる事がないと預言している。(イザヤ書28章14~16節)武力に頼らずに神に立ち帰り(悔い改めて)信頼していることこそ力が与えられる。(イザヤ書30章15節)悔い改めとは、依り頼む方向を人間から神様の方向に方向転換することである。ユダの王ヒゼキヤはエルサレムを包囲され、絶対絶命の危機にいたって悔い改め、主に祈って欲しいとイザヤに頼み、自らも主に祈り主に助けていただいた。

 

 イザヤの時代に国対国の関係で起こっていたことは、現代の個々人の関係の中でも起こっている。人間は、目に見える者を恐れ人間の力を頼りにしがちであるが、真の平安は謙遜になって目に見えない神を仰ぎ、神様の方に方向転換(悔い改め)し祈ることで与えられる。そうすることで、神様から聖霊をいただくことである。

 

 イザヤ書のこの聖句をわたしに教えてくれた石原正一さんは、主に依り頼む人であった。死の床にあっても全く慌てることがなかった。そして、「感謝のみ」との最後の気持ちを文字に残し、賛美歌30番の1番から3番までを娘と共に歌い終わって、神を見上げながら笑顔で主に召されていった。人間にとって一番恐ろしいはずの死を、最後まで信仰を持って泰然と迎えている祖父・正一さんの様子を見て、信仰から離れがちであったわたしの次男(孫)は、キリスト教が本物であることを直感的に感じた。まさに信仰を持って生きた正一さんが死を迎える時は、お見舞いや告別に集まった人々への最後の最大の伝道の時であった。