マタイによる福音書13章1~23節

2015.5.

1-3bはじめに

 イエスは群衆を前に、話し始める様子を描く。多くの群集が湖のほとりに集まって来たので、イエスは、湖に浮かぶ船の上に腰を下ろし話し始められた。それは、イエスの身に危険が近づいていることを知って言う弟子たちの心遣いから、また、イエスはイエスで多くの人々によく聞き取れるようにとの配慮からであった。その時その時の状況に応じ、イエスも、弟子達もそれぞれの役割を全うする真摯な姿が描かれている。この様子と通し、我々は、状況に応じた適切な対し方を学ぶことが出来る。

3b-9,18-23「種を蒔く人」のたとえ・その説明

 この種まきのたとえは、人が如何に神の言葉、福音を受け入れるかを描く。イエスを筆頭として、弟子、全ての伝道者により蒔かれた種が、人の心に根付き育つかを描く。イエスは福音を聞いた4人の違いを描いた。一人目は、道端に落ち、鳥に発見され食べられた種で、これは全然受け入れられず素通りする人。2人目は、石の多い土に蒔かれ、直ぐに芽を出した種で、一時の感激で浅はかに受け入れる人。3人目は、茨の中に落ち、伸びた茨でおおわれた種で、受け入れるが福音のみに徹底できない人。4人目は、良い土地に蒔かれ、実を結んだ種で、全身全霊で受け入れる人。

 我々の理想は、もちろん4人目の人で、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15)のように、静かに正しく福音を受け入れ、その全ての心で全ての愛を注ぎ尽くしこれを守る人である。種が育つのは良い土地があってこそ、である。良い土地は日々コツコツ手をかけて出来上がる。

私の近所にそれに相応しい農夫がいる。「百姓の仕事は、土づくりが大切。農業は土づくりから、土づくりが全てだよ。」その農夫の口癖である。昨年の台風28号で近くの川が珍しく氾濫した。その農夫の梨畑は一面泥に覆われた。この被害に遭われた農夫は、力なく「俺はもう梨作りはやらない、諦めた。」と漏らした。泥に覆われた土は呼吸ができず、その下で根を張っている梨の木は枯れてしまう運命である。この年で泥を除去する気力も、エネルギーも持ち合わせていないという。それ程の痛手を被ったのであった。この話をお聞きした約1月後土お越しが終わっていた。悩みぬいた末、決心を固め動き出したのであった。この農夫ではないが、厳しくとも現実から目を背けず、ひたすらコツコツ真面目に取り組むことで道が開けるのである。

種まきのたとえから、福音を素通りしてはいけない、浅はかな感激もいけない、信仰の目が出なくとも失望してはいけない、雑草を取り除きつつひたすら信仰のみに生きなければいけないのである。

10-17たとえを用いて話す理由

 前章の12章までは、たとえは全く登場しないのに、13章では一気に7つのたとえが登場する。弟子たちはそのことに気づき、イエスにその理由を尋ねた。イエスは答えた。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」イエスに選ばれた人のみ天国の奥義を、選ばれない人には例えを語るのである。

 たとえは、全ての人が日常、経験する事実の中に天の国の真理を示し、人生の事実により神の奥義へ導く。ただしイエスの話を聞く耳のはい人にとっては、全く理解できないものとなる。

むすびとして

 「良い土地」は、養分豊かな肥沃な土地、空気(酸素)、水分を含み、鍬の入ったやわらかなものである。信仰も同じである。我々も同様である。神の御言葉をお聴きする者は、やわらかな心、純粋な真っ白な心、静かな耳、埃のついていない感度良好な霊を整えることである。常に最善の状態を整えて神の御言葉をお聴きすることである。