ロマ書10:1-21                2017.1.15
テーマ:口でイエスは主であると言い表して救われる(9節)
▢1-4イスラエルの民は神の義がわからない
 パウロのかねてからの願いは、同胞のイスラエルの民が救われることである。しかしそれが実現しなかった。「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」(ロマ9:31-32) 彼らは、形式と儀式と律法とに熱心で、殊に先祖の言伝の細かい規則を遵守する事に苦労しいているのは、神に対する熱心からであり、そのことは認めるパウロであった。どうしてか。つまるところ、彼らは
いたずらに律法の形を守ろうとする事に熱心であった。神の義を知らず、自分の義を立てようとして、神の義に従わなかったのである。
 神は、その独子・イエスを十字架に付けることにより、神の愛を示し、私たちの罪を赦し、信ずる者を義とした。これが神の義である(ロマ書3:21-26)。イスラエルの民はこの福音を知らなかった。「自分の義」は、律法を実行する事により、自分の力により得る義である。この自分の義を建てようとする者は、自分に誇ろうとし、従って神の義を信じ、これに従わない。
キリストは、御自分を信ずる者が一人のこらず義とされるために、律法の終りとなられた。律法はその期限も能力も有限である。期限としては、約束を与えられた子孫(イエス・キリスト)が来られる時まで、能力としては、罪を克服できない人間の肉の弱さ故、完全に守ることができない。
 神は、律法がなしえなかったことをしてくださった。罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された。(ロマ8:3)よってこの律法には、終が無ければならない。キリストの到来により、律法は完全に成就し、終わりとなった。キリストの贖により、信ずる者は、すべて義とされ、生命に至る事が出来る。これを知らずに律法に熱心になるは愚な事である。
▢5-21 すべての人の救い
 神は、既にキリストを地上に誕生させ、私達自らの力で天に昇り、キリストを引下そうとしない、又、神は既に、キリストを地の底より引上げ、私達が地の底に降る必要はい。救は凡て神により完全に成就せられ、私達は唯これを信じればよい。“言葉はあなたに近い。あなたの口に、あなたの心にある”というこの言葉こそ、使徒パウロ達が説いている信仰の言葉[福音]である。パウロは力を込めて言う。「“口で”イエスを主と告白して、“心で”神がイエスを死人の中から復活させられたことを信ずれば、救われる。実に、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる。」(9-10) 内面の信仰は必ず外面の告白を伴い、これにより救は完成する。告白なき信仰は死んだ信仰である。また、信仰のない告白は虚偽の告白である
 職場での自己紹介、初対面の人との自己紹介で「わたしはクリスチャンです」と宣言すると、その後の交際がスムースとなる。また、人事異動の新しい職場で「酒は飲みません」というと、酒の席で無理強いされない。自己紹介でキリスト者と分かると、その後興味を持たれる人、小馬鹿にする人とまちまちである。公表することは責任を伴い、プレッシャーでもあるが、励みとなり、また、自動制御のブレーキになる。何となく信仰を持っている者と思われるのは、宙ぶらりんで玉虫色であり、ぬるま湯につかった信仰であってスッキリしない。逃げ道を確保しているようで、神は決して喜ばない。
 教会と異なり形式を重視しない無教会の集会は、バプテスマ(洗礼)をしない。「キリストは私の救い主であり、キリストを信じる者です」と公に言い表すことが、無教会にとり、教会の洗礼以上に大切なものであり、信仰告白は、大きな節目となる。
▢まとめとして
・信仰告白は、神と心中する決意が必要である。人は、神(天国)と富(この世)の両方に生きることはできない。キリスト者は、この世に身を置き天国で生きる者である。天国は、この世の名声、地位、信頼、財産は持込みできない。大切なものは信仰のみで、罪赦された喜び、感謝、謙遜な心であり、この心が大きければ大きいほど神は喜んでくださる。私達は、日々、「どんなところでも、誰に対しても、信仰告白できますように」と祈りつつ生活したい。