ハネの手紙Ⅰ2:28-3:24    2022.5.22

西澤 正文

テーマ:神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます(24)

 著者・ヨハネは「世の富を持ちながら兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者は、どうして神の愛がその者の内にとどまるでしょう」(17)と言っていますが、神の内にとどまることが出来るのは、行いをもって誠実に愛する人です。しかし、実際にはなかなか難しいことです。イエスは、難しいと思ってそれで終わるな、誠実に愛しなさいと言います。誠実にとは、真面目に、心を込めて、ということです。何か私にできることはないのか…一度立ち止まり、考えなさい、と言っています。

 ここで、さりげなく愛の手を差し出されたサマリア人(ルカ10:25-)の愛を考えたいです。

律法学者がイエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐこができましすか」と質問しました。イエスは応えられました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を

尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6:5)「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:28) このイエスの答えは、律法学者にとっては、お手のもので旧約聖書の律法は十分すぎるほど知っているからです。

 しかし、律法学者たちは、自分を正当化しようと重ねて質問しました。「私の隣人とは誰ですか?」、「私の愛さなかった隣人とは?」 

イエスは、祭司、レビ人、サマリア人を用いて話されました。ある人が、エリコへ下る途中、追いはぎに襲われ半殺しにされました。その道を下って来た祭司、レビ人は、半殺しに遭った人を見ると道の向こう側を行ってしまい、旅人サマリア人がその人を見ると近寄り、手当てをした後、宿屋に連れて行き

 

 

ました。翌日、再び宿屋へ行きその主人に介抱する

よう頼みました。

 祭司もレビ人も向こう側を歩き、倒れた人に近づくことが出来ませんでした。旅の途中のサマリア人は、倒れている人に近寄って来ました。

この三人の行動を見ますと、愛は自分の立場から離

 れなければ生まれないことが分かります。律法学者や祭司は自分の立場から離れることが出来ませんでした。安全地帯に身を置いたまま、一歩もそこから離れることができませんでした。自分を愛するだけでした。 

 イエスは、サマリア人の愛を話されて後、更に、ファリサイ派、律法学者たちを非難されました。(11:37-54) ファリサイ人律法学者たちは、「外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(同:39)と。

 ファリサイ派とは、律法を守らない一般の人から自分たちを「分離した」という意味からも見て取れますが、エリート意識があり、一般の人々との交わりはほとんどありません。イエスのように、悩みを抱えた人々、生活に困っている人々、病気が治らず元気のない人々、人から相手にされず一人寂しく生活している人々、このような人々の中に入り、悩み苦しみ喜びの声が、自然と耳に入る人々が暮らす日常生活の中に身を置いて生活しなければなりません。教会やお寺と言った狭い限られた狭い社会の中

での生活では、人々の様子、声は届きません。

▢結びにかえて

 

 「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(24) この人こそ、隣人を自分のように愛することが出来る人です。