マタイによる福音書12:38-50 人はしるしを欲しがる

2015.4.26

38-42人々はしるしを欲しがる

 この学びのキーワードは「しるし」である。「しるし」は、救いの証拠として、奇跡の業となり人の前に出現する。イエスはやみくもにしるしを示さず、「この人なら」と思う人のみに為す。イエスがご覧になり、「救い」に値する信仰、つまり熱心な求めが確認できた人だけに「しるし」を為す。

 38すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。

 ファリサイハの人々は信じたいためにしるしを求めたのではなく、社会に影響力を及ぼし始めたイエスを群衆から引き離そうとする企みから、イエスに催促したのである。これまでイエスは既に何回か群衆の前で奇跡を表わし、ファリサイ派の人々もイエスの御力は十分知っていた。以前もファリサイ派の人々はイエスの奇跡を目の前で見ていた。「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。」(12:22-24)同じ奇跡を見みながら、群衆はイエスの御力に驚き、ファリサイハの人々は、イエスの御力を認めない。その違いは、「信じよう」との思いがない人は、いくらしるしを見ても素直に受け入れることが出来ないのである。

信仰は、そもそも見えない世界を信じることである。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11:1) 目の見えない盲人、耳の聞こえない人、寝たきりで家の外に出られない人、これらの人々は何ら障がいのない人々よりも立派な信仰を持つ。更に、周囲の人々に福音を伝える働きを為すことが多い。心から全身全霊で救われたい一心から、信仰の世界に到達するのであろう。

43-45汚れた霊が戻って来る

 汚れた霊は、人の心、体に病気や障害などをもたらす悪霊であり、じっととどまっていることが出来ずあちこちとうろつく。しかしうろついても納得できる場所が見いだせず、元の所に戻る。戻れば以前同様砂漠のような荒地であり、潤いもなく心の拠り所を見出せない所である。

これは、何を教えるのか。それは、信仰を失った人の心を示している。信仰に迷い、その隙にサタンが忍び込み、この世の安易な快楽、物欲、名誉欲、嫉妬心で心が満たされた人となる。イエスから離れた人もこの状態で、浮草のように当てもなくさ迷う人となる。

46-59イエスの母、兄弟

 イエスは言う、「父なる神、その神に繋がる兄弟姉妹の信仰関係は、母や兄弟等の肉親関係よりも濃い」と。イエスが伝道を開始して間もない頃、家族のもとに我が子、イエスの嫌な噂が耳に入り放って置くことはできない様子が語られている。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコ2:20-21)

今回、これと同じように世間を騒がせるな、とイエスの言動に理解できず悩む身内が登場する。

46イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。

身内としてこれ以上迷惑をかけてくれるな、とイエスを捕え家に連れ戻そうと来たのである。イエスは、全ての人は神の前に兄弟姉妹であることを教えられた。神は天地万物、人を創られた方、よって、全ての人にとり我らの父であり、肉以上の父である。父に連なる人々は皆、兄弟姉妹となる。

まとめとして

 ほんの小さなしるし、たった一度の奇跡が見えなくても、言葉により信じることのできる人がいる。イエスの死後、人類は、聖書により信仰を受け継いできた。また、天地を創造された神の御業である自然界により四季の移り変わり、地震、落雷、竜巻等により、癒され、畏れ、平安を与えられ命を繋いできた。留まることなく、天を仰ぎ、日々信仰より信仰へ進んで行きましょう。