「友よ」
                                                                                                                                             -マタイによる福音書19:16-20:16より-            (2015.9.20)
   20章には、「ぶどう園の労働者」のたとえが登場する。イスラエルの一日、日中の活動時間は、朝の6時から夕方の6時までである。主人が夜明けに出掛けて行き、1日1デナリオンの日当を提示し、主人・労働者双方合意の雇用契約により労働者をぶどう園へ送り出す様子が描かれている。
 刈入れに忙しいぶどう園の主人は、多くの労働者の手を借りたいため、日雇い労働者が職を求めて集まる労働市場に出かけた。9時に出掛けると、何もせず立ったままの労働者を見つけた。12時も、3時も出かけて行き、同じように送り出した。そして5時頃出かけて行けば、まだ突っ立っている人がいて、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、「だれも雇ってくれないのです」と、その労働者は答えた。
 この労働者は、あと1時間で1日が終わるというのに、雇ってくれる人の現れるのを待った。雇ってくれる主人が現れるのをただひたすら待った。何としてもその日の食料を手に入れ、家に帰って愛する妻に、子に食べ物を食べさせたい……この切なる思いを胸に秘め待った。この立ち続ける日雇い労働者の気持ちを思うと切なさがこみ上げてくる。刻一刻と時刻が迫る中、家族のために絶望に飲まれそうな心を奮い立たせ、信じ続ける一家の主の真面目な姿があった。
    夜が明けて直ぐ、あるいは9時にぶどう園に送られた人たちの喜びとは違い、5時に声を掛けてもらった労働者たちは、泣きたくなるような深い喜びが込上げたであろう。そして、1日の労働が終わって6時になり、労働者が帰って来る。主人は、労働者たちを呼び、最後に来た者から順に賃金を払ってやった。主人は、あえて最後に来た者から渡した。それは何故だろう。仕事がもらえず待ち続けた大きな不安、そして今、いの一番に日当を手にした喜び、この思っても見なかった二重の喜びを早く家に帰って家族と共に分かち合いなさい、そのような配慮ではないだろうか。
   最初に出掛けた労働者は、主人に訪ねた。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(12)主人は、答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」(13)「友よ」と、主人は労働者をこうに呼んだ。雇用主と労働者の関係でなく、同じ釜の飯を食べる仲間と考えている。日本の大企業とは雲泥の差である。日本の労使関係は対等でなく、金を払う側の方が強い。実際は働く側は、労働力を提供、雇用側は、その代価を提供し、対等「友よ」である。日本は「雇ってやる」意識が強い。上から目線、日本の企業で労働者を「友よ」と呼ぶ経営者はいるだろうか? イエスは2千年前から正しい関係を捉えていたのだ。
 天国はこのように、ただひたすら神を待つ者が祝福されるところであろう。いくらで雇われるかを気に掛けずひたすら謙遜に、一心に、主人に付き従う者が祝福される所、先に雇われたものが先輩面、古参面して、お前たちとは違うというような顔をする者は、先に立つことはできない所、常に神の深い御心により統治される所である。イエスは幼子のようなへりくだった姿を、午後5時に雇われた労働者の中に見たのである。また、金持ちの青年の姿を朝早くから雇われた労働者の中に見たのである。
むすびとして
   天国は、神様がどんな人も守るために必ず現れる所である。また、神様は、どんなに遅れようが、諦めず信じて待てば必ず目の前に現れ、ひたすら待つことのできる人が神に祝福される所である。