ルカ10:21-42                 2018.7.8
テーマ:行って、あなたも同じようにしなさい(37)
 10章に、ルカだけに記された「善いサマリア人」が登場する。(25-37)
イエスのところに律法学者が来て、イエスに二つ質問した。まず、「何をしたら永遠の生命を頂くことができますか?」。イエスは答えます。律法の中の戒め二つ心から神を愛しなさい、(申命記6:5)隣人を自分の如く愛しなさい、(レビ記19:18)でした。次に、「隣人とは誰ですか?」。イエスは答えます。追いはぎに遭い半殺しに遭った旅人に対する三人の態度について……祭司は、その人を見るなり反対側の道にわたり通り過ぎた。レビ人も祭司と同じであった。サマリア人は、傷を手当てしロバに乗せ宿屋で介抱 預け、費用全部払いますと伝えた。この三人の対応を説明された。その後、今度はイエスから逆質問した。「この三人の中で隣人とは?」と。
 イエスは、旅人を助けたサマリア人になれない法律の専門家に「追いはぎの隣人になった人はサマリア人です」と答えさせられました。イエスを試そうとした律法専門家がイエスに試された形となりました。教えるだけでなく実行せよと言われたようなもので、イエスの勝利です。
 律法は、神様の要求するところのもので、人間には、完全に答えられないもので、そのことは律法の専門家も重々承知していた。神様が人間の姿になられ、ひとり子イエスをこの世に遣わされた新しい時代を迎えた今、何をしたらよいのかと考えることをしなくていい。もう永遠の命=イエスはやって来られた。我々は感謝して受け取ればいい、これがイエスのメッセージです。我々はただイエスにすがることにより永遠の命を得ることができる。私たちの世界は、何かすることにより得るのではなく、イエスの為されたことをいただくこと=イエスが十字架に召され、身代わりとなってくださった神の愛、この愛を素直に信じることによりできる。それが、25節「何をしたら永遠の命を得ることができるか?」の答えです。
 次に、マルタとマリアが登場します。(38-42)これもルカだけの記事です。一生懸命接待したマリア。マリアはいいことを選び、マルタは心を取り乱したことがいけなかった? 私たちは、姉妹のマルタ、マリアのイエスを迎えた態度、信仰を比較しがちですが、それは事の本質ではありません。今、新しいものをイエスがもたらしてくださった。十字架により新しい恵みを代価なしに与えてくださった恵みの世界、代価なしに与えてくださった恩寵の世界がやって来たことを心から受け止め、喜ぶことです。私達のところに来てくださったイエス様を喜ぶこと、これが信仰生活、主を喜ぶことが信仰生活です。 
 神がどんなに私を愛されたかを喜ぶこと、それをいい加減にして、何をしようかでないです。今我々クリスチャンにとり一番大事なことは、マリアの様に御言葉に聞き入ることです。 
 こんなにつまらない者、穢れた者、いやな者、だらしない者、都合のよい時だけ神様助けてくださいとすがるいい加減な者、そういう自分を愛してくださるイエス様を感謝することです。まずは、イエスが私のところに来てくださった喜びを心から受け止め、喜ぶこと、そこから新しい自分を見出すこと、そして一人一人の感謝の応答が始まると信じます。
▢まとめとして 
 私たちは、イエスの為されたことをいただくこと=イエスが十字架に召され、身代わりとなってくださった神の愛、この愛を素直に信じること、これによって永遠の命を得る事ができます。私のところに来てくださったイエスを信じ、受け入れ、共に歩むこと。永遠の命はイエスであり、イエスそのものが恵みであり、福音です。