ヘブライ人への手紙4章                  2016.4.24
神の安息はまだ続いている
・旧約聖書の時代、指導者・モーセと共に、カナンの土地を目指し、エジプトから脱出したイスラエルの民は、神の言葉を聞きながら、40年間荒野の旅をつづけた。長年、神が約束された「安息の地カナン」を目指していると、神の言葉を忘れ、自己中心的な欲望に負け、直ぐに不平・不満を叫び、モーセを困らせ乍ら旅をつづけた。その様子がヘブライ人への手紙3:8-10に簡潔に記されている。「荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は わたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』」
・そして、イエスがこの世に誕生した新約時代に至り、「神の安息の約束はまだ続いている」。(今日のテーマ)出エジプトの民のようにならないように気を付けようと呼びかける。
当時の民(エジプトを脱出したイスラエルの民)は、神が安息を約束した言葉(福音)が、心に届かなかった。神を信じる信仰がないために、言葉が心に留まらなかった。しかし、新約時代に入り、イエス・キリストの誕生を経験した私たちは、この安息、恩恵に浴することができる。 
・「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しよう」(11節)さもないとイスラエルの民のように堕落するかもしれない。私たちは、イエス・キリストによって与えられる天における霊的安息に入るように努めなければならない。わたしたちには、神殿の宗教儀式を司る聖職者である祭司を取りまとめる大祭司・神の子イエスキリストがおられるから、我々はぶれることなく信仰を固く保とうではないか。この大祭司・イエスは、あらゆる点において、わたしたちと同様、三十数年の地上生活の体験を通し、私たちの心の内面…貪欲さ、弱さ、醜さ、自己中心的な考え方等すべて知り尽くした身近な方であられる。だから、我々はイエスの愛、御恵み、最適な助けをいただくために、勇気をもって大胆にイエスの間近に迫り生活しよう。 
▢まとめとして
①エジプトを出発したイスラエルの民には、神の言葉が届かなかった。そして現代を生きる私たちが、神の言葉を聞くとは、どういうこと

 か? 御言葉を自分自身の生活に当てはめることである。旧約時代、モーセの後をついて荒れ野を旅した民は、神の言葉を聞いたにもかか

 わらず自分の心に宿すことができなかった。これはどうしてだろう、それは、神の言葉が心に響かなかったからである。イエスが御国へ帰

 られた現代において、我々も神の言葉である聖書を読んでいても中々心に伝わって来ないことがよくある。それはどうしてか? 聖書を一

 冊の単なる書物として漠然と読んでいるからである。憶力の良い人は、強烈なイメージを描き、その中に数字や風景等を置き換え、心に焼

 き付ける、という話をよくお聞きする。自分自身の生活に置き換えるとは……、神と私自身の縦の1対1の関係、複数の中の私(私たち)で

 なく、一人になった状態で神と向き合うことである。御言葉によって、元気をいただく、活力が湧く、気分が軽くなる、このような実体験

 を沢山することが、私たちの信仰生活である。
②御言葉を無条件のままお聴きすることでる。丁度、イエスが山上の説教をされた場面は、ガリラヤ湖を見下ろす丘の上であった。弟子たち

 や群衆は、そこに腰を下ろし、何もせず、何も持たず、無条件のままお聴きした。乾いた砂地は、雨が降れば、あっという間に全てスーと

 吸収してしまう。我々も先入観・固定観念というフィルターを通さず、幼子の様な真っ白な心、綿のように水分を沢山吸収できる柔らかな

 心を用意し御言葉をお聴きしよう。