静岡クリスマス講演会                12月5日 清水テルサ
-はじめに-
 昨日までの愚図ついた天気とは打って変わり、今日は見事な日本晴れ。雲一つなく、風もなく、会場から眺める景色は、紺碧に染まった清水港、新雪に覆われた真っ白な富士山、どこまでも広がる優しい水色の青空が映し出された。当日県内の「市町村対抗駅伝」と重なり、渋滞が心配されたが、開始時刻には40人を超える人で埋まった。
 数年前も同じように快晴だった。会場の研修室に入ると、目の中に富士山が入り、席に 着く前に窓際に直行し、富士山を眺める人が並んだ。今年は、徳島から吉村孝雄氏をお迎えし、お話ししていただいた。

                       この世の宝物                       西澤 正文
▢神の言葉「光あれ」
 旧約聖書の最初に、この窓の外に広がる大自然を創られた天地創造の記事が登場する。聖書中、神が最初に発した言葉は、「光あれ」である。これが天地創造の始まりである。「光あれ」は新約聖書のイエスの誕生=今日のクリスマスに繋がる大切な言葉である。
新約聖書にも、天地創造に匹敵する内容が、ヨハネによる福音書1章に登場する。「言」を「光」に置き換えてみたい。
 「初めに言(光)があった。言(光)は神と共にあった。言(光)は神であった。この言(光)は、初めに神と共にあった。万物は言(光)によって成った。成ったもので、言(光)によらずに成ったものは何一つなかった。……14言(光)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネによる福音書1:1-3,14)
 光は、旧約聖書では天地創造の源、新約聖書では救い主となる神の独り子「イエス」の誕生に到達する。イエスの地上での生涯はおおよそ33年と言われている。そして30歳になり公の伝道を開始し、約3年後に十字架に架けられ、地上を去られる短い生涯であっ
た。イエスは、神によりこの世に生まれ、人によりこの世を去った。
▢罪とは何か  
 人々の罪を担いこの世を去られたイエスであるが、そもそも罪とは何でしょうか? 神の要求・命令に従わず、背き、神から離れたことを実感した時、示されるものである。新約時代、イエスが金持ちの青年に語られたことがある。
 「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 イエスは言われた。「……もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マタイ19:16-22) 青年は、この世の財産を多く持ち手放すことが出来ず、神の戒めを守れなかった。神より冨を大切にしていたことを指摘された。これは私にも、否、全ての人に言えることである。
▢イエスの愛された人
 イエスと青年のやり取りは、何を語っているのだろうか。誰一人、神の要求・命令(=
戒め)に完全に従うことが出来ない、神の前では、皆、不完全な罪人である、ということである。イエスの愛された人は、先の金持ちの青年とは異なり、自分の弱さ、小ささを知っている謙遜な人、イエスにすがり、助け、癒しを切に求める人達である。
▢まとめ
 イエスが十字架に架けられ、既に2千年が経過した現在、私たちはイエスにお会いできない。しかし、十字架上のイエスを心に迎え入れることが出来る。我々の「この世の宝物は、十字架上のイエスの姿」である。いつでも、どこにいても、十字架上のイエスの姿を心の中に描き、仰ぎ見ることが大切である。自分に頼らず、頑張らず、全てイエスにお任せし、生活していきたい。

                           闇と混乱の中の光-キリストと聖書-          吉村孝雄(徳島県)
 この世界は、闇と混乱の世界である。しかし、この状況は、決して今にはじまったことではない。聖書は人間の深淵を記している書であるゆえに、冒頭からそのことに触れている。アダムとエバは全てが恵まれた楽園にいた。それにもかかわらず、そのような大いなる恵みを与えた神の言葉に従わず、闇の力に従ってしまった。さらに子どもであるアベルとカインに関しても深い闇が襲い、カインは、アベルを殺害するという驚くべき事態となった。
 ここに、現代まであらゆる歴史においていかなる国や民族にもかかわらずに生じてきた闇と混沌の根本的原因が記されている。しかし、こうした一切の闇、悪に対しての根本的な解決の道は聖書巻頭の言葉にすでに示されている。
 光あれ!―神のこのひと言で闇の中に光が生じた。この言葉はそのまま、命あれ! につながる。キリストは、まさにこの両者を実現する神の言葉を持っていたし、ご自身がその神の言葉そのものでもあった。
   大多数の文学作品というものも、人間世界の闇―罪を記したものである。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は決して単に子ども向けの童話ではない。この物語には独特の哀調がある。この世界の闇と混沌への深い悲しみがある。自分の命さえ差し出そうとするような愛への高い憧憬が感じさせている一方で、その記述の少し後で、この銀河鉄道の夜の旅の最後に現れるのは、深い闇の世界であった。
  「…ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくろな穴が、どぼんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら目をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ目がしんしんと痛むのでした。」
なぜ、著者はこのような情景を描き出したのか。銀河鉄道の旅が終わろうとするそのとき、単にまっ暗な穴であるならば、不気味であり恐れや不安が生じたと記すのが自然であるが、ここでは、そうではなく、その暗い穴がどれほど深いか、その奥に何があるのか全く見えない―分からない。そしてただ目がしんしんと痛む、という表現となっている。
 目が痛む―それは心が痛むということを暗示している。これは、この世の闇の世界を象徴的に示している。この世の闇は、どれほど深いか、それがなぜ存在するのか、なぜこの世界に到る所で考えられないような悲劇が次々と生じていくのか、その悪の力の奥には何があるのか、何がそのような闇を存在させているのか―それらはいっさい私たちにはわからない。その闇によって生じる世界の悲しみや苦しみを思うとき、ただしんしんと目が痛む―静かにしみ込むように心が痛む ―。その大きな悲しみや痛みを何がいやすのか、それはわからない。それゆえに、何が本当のさいわいなのか―との問いかけに対して、…カムパネラは、「僕、わからない」とぼんやり言いました。… とある。
  現在の世界では、イスラム国(IS)のテロが大きな問題となっている。そのことに関連してイスラム教のコーランのなかに、次のような記述がある。
 「神(アッラー)の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。…お前たちの出会ったところで、彼らを殺せ。お前たちが追放されたところから敵を追放せよ。迫害は殺害より悪い。」(コーラン第二章190~191)イスラム過激派といわれる人たちの行動とこのコーランの記述とは深い関係があると言わざるを得ない。敵への憎しみ、復讐といったことはどこの国でもみられたし、さらに個人的な人間関係でもいくらでもみられる。
 主イエスは、最初にユダヤ人の会堂に入り人々に朗読した。その活動を通しイエスに驚くべき洞察と力、権威がともなっていたゆえに、人々は喜んだ。しかしそれも束の間、彼らユダヤ人の心のかたくなさ、罪を指摘された。すると彼らは、いっせいに怒りだし、教会から排斥し、崖のあるところに連れて行って突き落とそうとした。
 このように最初の神の言葉の説教にあっても、深い人間の闇のただなかにて活動し、おそれることなくその憎しみや敵意のただなかを通って行かれた。(ルカ福音書4の16~30)そして、民の指導者たちからも民衆からも侮辱され、十字架に釘付けされた。しかし、最大の敵というべき死の力にも勝利して復活され、さらにその復活の命をただ信じるだけでだれにでも与えてくださるようになった。こうしたことによって、キリストこそはいかなる闇―敵意や憎しみ―にもうち勝つ力と権威を持っておられたのが示されている。
 この世界はいかに闇と混沌であろうとも、私たちがその神の言葉をしっかりと持ち続けているかぎり、あるいはその神の言葉を手放したり、見失ったり、また疑いが生じたりしても、そこから神に立ち返ることによって私たちはそのみ言葉、光あれ! の言葉のとおり、再び光を得ることができる。

          -参加者の感話から-
溝口 春江(浜松市)
この日、会場から富士山の眺望は見事であった。神の創造される大自然はこのように美しいのに世情は混沌として光を見失っている。然し主の御言葉は闇の中に希望と未来を示す光であることを西澤・吉村氏からお聴きすることが出来、感謝に溢れた。西澤氏は天に宝を積むとは、どんな行いをするのかを問うた青年のことを語られた。私はビル・ゲイツの「子供の不平等な人権」のために95%の財産を寄付する社会の在り方を思った。また、吉村氏は、原発のあり方を巡って湯川秀樹の「人間にとって科学とは何か」の著書を引き、化学が未来を解決するのではなく、世界に平和を来たらせる道は愛しかないが、その根拠はキリストを信じることであると話され心に響いた。私は、「あなたの御言葉は、私の道の光、わたしの歩みを照らす灯火」(詩編119)を心に刻んでこれからも歩みたいと思った。
多田義国(千葉市)
 静岡クリスマス講演会は土曜日で、聖日礼拝と重ならないので、出席させて頂きました。この日は晴天で、車窓から雪をかぶった富士山、駿河湾を飽きず眺めながら予定通り早めに清水駅に着き、清水港の前の食堂街で、名物のシラスのいっぱい入った海鮮丼を食べました。満足してすぐ近くの講演会場に入ると、見知った人たちから「よく来てくれた」と声をかけられ、気分は上々。そして敬愛する吉村孝雄、西澤正文講師の心動かされる深い神の言葉を聞くことが出来、大変充実した幸福な一日を過ごすことが出来ました。この講演会のためにご愛労下さった皆様、お二人の講師、そして多くの人を集め、盛会にして下さった神様に感謝申し上げます。