ルカ7:18-36               2018.5.20
テーマ:わたしにつまずかない人は幸いである(23節)
 この個所は、バプテスマのヨハネとイエスを対比し、二人の違いについて述べている。
 先ず、ヨハネの置かれた状況をみたい。ヨハネは、ガリラヤの領主・ヘロデに対し「あの女と結婚するのは律法で許されていない」と非難し、投獄されている身である(ルカ3:20) 投獄される前、ヨハネは、イエスについて「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打もない。」人々に紹介していた。(ルカ3:16) 獄中の身であるヨハネは、イエスの動向がつかめず、弟子をイエスのところに遣わし、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と質問し、イエスに対する疑念が芽生えていた。
 民衆はメシアが現れるのを待ち望み、ヨハネがメシアではないかと思っていた。(3:15)ヨハネも民衆と同じように、メシアを待ち望んでいた。そして、イエスがこの世で革命をなさる方と思っっていた。しかし、獄中に届くイエスの知らせは、社会の改革でなく細かな慈善、救済活動の情報ばかりであった。ルカ福音書の登場するイエスの活動も、ガリラヤ湖で知識教養に縁のない素朴な漁師達や、取税人を弟子としたこと、異邦人の軍人の僕を癒したこと、また、ナインの町のやもめの一人息子を蘇らせたこと等、イエスは、目に留められたひとりほとりた相手に声を掛けられ、病をいやされたことばかりであった。ヨハネは、社会を変革するには、一人一人に救済の手を差し出すのでなく、社会の根源に手を入れなければならないと考えた。一方、イエスは、伝道を開始直後のナザレで「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」(4:18)との認識を表明さ、油を注がれた者としての使命を強く自覚された。 両者のメシア観の違いがはっきりしている。
 イエスは、「ヨハネは女から生まれた者のうち、最大の人、しかし、霊により生まれた者は、さらにヨハネより偉大である」と。これは、信仰の子(イエスを信じる人)は、正義の子(ヨハネ)よりもさらに偉大である、と言う事であろう。「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法(旧約聖書)が預言したのは、ヨハネの時までである。」(マタイ11:12-13)とあるが、これは、イエスがこの世に誕生してからというもの、世界は一変したということである。ヨハネまでは、人間の熱心さ、功徳により、恵みは、手にすることできると考えていた(力ずくで奪う世界)が、いくら人間の熱心さがあっても獲得できない。天国は、一方的に神様から頂くものであり、イエスがこの世に誕生した今の時代は、神様から頂く世界に変わり、私たちは受ける人となった。 
▢まとめとして
 バプテスマのヨハネまでの世界と、イエスがこの世に誕生した以降の世界は大きな違い がある 信じる者に直接イエスから福音が告げられる世界が来た そして、イエス・キリストの方から私たちに近づいてくださる 私達は、イエスと向き合い、自分自身の醜さ、弱さ、罪深さを示さる人でありたい さらに、一方的に赦され、そのことを通して愛、喜び、恵みをいただいていることをさらに強く感じていきたい