ローマの信徒への手紙2章17-29              2016.10.2
主題:人は外見でない
 「律法をひとたび破れば、たとえ他の律法の全てを守ったとしても誇ることはできない」(25節) 選民・ユダヤ人といえども、どんな人でも、律法を完全には守れない。このことを謙虚に受け止めていかなければならない。そうでなければ、律法を与えられた民であることをことの外大切にし、特権意識、エリート意識だけが独り歩きしてしまう。
 ここで少し本論から離れるが、福音と預言、信仰と平和・この世について少し触れたい。キリスト者の中には、平和な社会の実現のために具体的な運動に取り組んでいる熱心な人たちがいる。その人たちは、「福音と預言は車の両輪で、2つは共に極めて大切である」との考えがある。熱が入り過ぎて、実践している人たちは、無意識の内に、実践していない人たちに物足りなさを抱いているのでは、と思えることがある。そして、律法を与えられたユダヤ人に重なって映る。ユダヤ人は律法を与えられた民、異邦人は与えられていない、と区別するように、平和実現のために活動している人、していない人と、無意識の内に実践していないキリスト者を見下していないだろうか。これだけ大変なことを一生懸命しているという特別な意識が内在しているように感じられる。どんな人も平和な世の到来を願う。だからといって、常に、とこでも、処かまわず、尊さを口にする傾向がありやしないか。
 仮に、この世に戦争がなくなり平和な世の中になったら、心の平安、魂の救いは得られるのだろうか。得られないと思う。魂の救いは別ものである。心の苦しみ、悩み、不安、孤独、病、あすのパンの確保等などは、たとえ平和な世の中になっても解消されない。福音と平和は両輪でなく、福音が主であり先である。無教会の政池仁は、「無教会主義断想」の中で、こう述べている。「無教会主義の正門は十字架の福音である。側門また裏門もある。対教会論、平和論などはそれである。側門や裏門は外庭にまでしか通じていない。内庭に入るには、正面にまわって十字架の福音から入り直さなければならない。」と。
 キリスト者の平和活動の原点は、神による罪の赦し、魂が救われた者の喜びの実感からである。この喜びの神への応答として、ある人にとり、この世の平和実現の取り組みへ導かれるのである。罪を赦していただいた十字架の福音を経ずして平和を目指す社会的実践はない、と思う。
 ここで少し、イエスの福音伝道について触れたい。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)と、イエスがこの世に誕生した理由が触れられている。また、「(ヨハネが捕えられた)そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。(マタイ4:17)とあり、伝道開始の様子に触れている。「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ4:23)、また、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。」(ルカ8:1)と伝道の様子が描かれている。そして12弟子に福音伝道を奨励し、「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」(ルカ9:6)とイエスに続き福音を述べ伝えている。イエスは、この世の誕生から一貫して、魂の救い、罪の悔い改めのために、各地を巡り歩き福音を述べ伝えることに邁進された。
 このようにイエスの福音を述べる活動を振り返ってみれば、魂を救いへと導く福音は、他の何ものより大切なことがうかがえる。
 ここでもう一度、ロマ書に戻ると、「外見の、見た目のユダヤ人がユダヤ人ではない。ユダヤ人だから誇ることができるのではない」(28-29節)とある。人は見えない所でしっかり神の教えに忠実で、従順に従う生活をする者こそ、讃えられるのである。人の評判、誉れは、人からでなく、あくまで神様からである。人からの評判を得ようとする人は、無意識の内に人の目線、動向を意識し、他人ばかり意識し、目線も心も落ち着かない。人の目、外見を気にするキリスト者は、自身の心に今だ神、イエス・キリストを迎えられていない人と思える。 
▢結びとして
 神により、己の心にある罪をあぶり出され、言い訳無しにその罪を受け入れ、心を砕かれて、十字架の前に立つことが許される。それまで体裁を整え自分を信じ自力で生きて来た人にとり、180度の方向転換は、つらい事である。しかし、この十字架から始まる細い道こそ救いの道、福音に通じる道である。