マタイ10:26-42        2015.3.22

2631 恐るべき者

-10章前半の迫害の予告を受け、ここでは「本当に恐れなければならないのは誰」について教える-

28「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」 人を恐れるな、体と魂の両方を殺すことのできる神を畏れなさい、と説く。我々は、元来、弱い者で今日の過度な情報に翻弄され、時に不安になったり、時に怖がったりしながら、日々生活している。しかし、多くの情報の渦に巻き込まれることなく、冷静になって考えれば、本当に恐れるものは何か、恐れる必要のないものは何か、見極め、整理することが必要である。「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。」(箴言9:10)の御言葉にあるように、神の計り知れない御力、御恵みを知り、畏れかしこむことが、過度な恐怖、不安から解放される道である。

29「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」取るに足らないほんの少ししかない価値の雀さえ神の目に留まっており、神により生かされているのである。

31「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」人は雀よりも比較にならないほど神に愛されている。神の絶対的な主権こそ恐れ、全知全能の神に信頼すれば、この世の恐れから解放される。

3233 イエスの仲間であると言い表す

信仰告白はイエスの仲間であるとの忠誠を宣言することであり、人々の前でイエスをわたしの仲間であると言い表す者に対し、今度、イエスが天国で神の前に立ったら、同じようにその人をわたしの仲間であると告白する、と。これは、地上で弟子たちが受ける人間の裁きと天国で神の前で受ける裁きが繋がっていることを教える。「イエスの仲間」とは、口先だけのことではなく、イエスを信じ、忠実に従い生きることである。イエスの本当の弟子になるには、常にイエスを認め、命がけで従わなければならないのである。「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)

3439 平和でなく剣を 

 34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、

剣をもたらすために来たのだ。」キリストを信じ従う人、信じず従わない人、この両者のは、

敵対的となり争いが起こる。その争いは家庭内の親子の間、夫婦の間でも起きる。だから、キ

リストを信じ、キリストに従う者になるかどうか。キリスト者は並々ならない決心が要求され

る。イエスは、この世で慰めや平安を得る以上の高尚な使命に私たちを誘う。

3738「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」イエスは弟子たちに、私か肉親のどちらを優先するのか、二者択一を迫る。肉親を優先するなら私=イエスにはふさわしくない。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39) この新しい戒めにあるように、最も重要な愛は神を愛することであり、次に重要な愛は人を愛することであり、神、イエスに従うことが何よりも最優先事項であることを示す。しかも、自分の十字架を担って来なさいと。これは死に至るまでイエスに従うことを教えている。イエスについて行くことは、イエスのために苦難や死を覚悟することで、信仰者は血縁的人間関係を主体的に切る決断が要求されるのである。これは大変厳しい道であるが、反面、全て分け隔てなく兄弟としうる道が開かれる。 

40-42受け入れる人の報い

 神への愛は、どのように他の人に接するかにより決まる。42「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ましてくれる人は、必ずその報いを受ける」 のどの渇いた小さい者(こども)に水一杯でも飲ませるというイエスのたとえは、利己心のない奉仕の模範である。子どもは、恩返しすることもできない。良い行いを誰も見ていなかったとしても、神は気づいておられる。「小事に忠実な者は、大事にも忠実である」(ルカ16:10)

まとめとして

・恐れること、危害が及ぶことを心配してびくびくし、危害を及ぼすような人や物と接することを避けたがる。これが一般人の現実の姿である。しかし本当に恐れなければならない人は、神のみである。神の人為の及ばない無限の御力、無限の愛に畏れ、かしこみ、敬い、身を慎む。神への畏敬の念により、人に対する恐れは自然と治まる。