ルカ22:31-71                  2019.3.10
テーマ:ペテロ、外に出て激しく泣いた(62)
 イエスは、ペテロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけなさい」(32)と話された。これは、この時すでにイエスの心には、ペテロの行動を見通しておられた。立ち直ったらとは、ペテロが、この後「イエスを知らない」と言って他人の振る舞いをする事、そして悔い改めたペトロへの励ましである。イエスの視点は、常に先々のことを見通しておられる。
 その後、イエスは、ゲッセマネに場所を移し、「汗が血の滴るような祈り」をされた。 血とは命であり、命を削る祈りをされた。一方の弟子たちはと言えば、イエスの近くで眠り込み、イエスと正反対の姿であった。イエスは、「石を投げて届くほどのところに離れ」(41)祈られた。もしも、弟子たちが起きていれば、イエスの真剣な祈りの姿を拝見でき、イエスのただ事でない状況におられたことが理解できたであろう。
 イエスがユダの背信行為により身柄を拘束された。その場に居合わせたペテロが、大祭司の手下の耳を切り落とすと、イエスはペテロに「やめなさい」と静止させ、その場で手下の耳を治された。イエスの愛は、人を分け隔てなく全ての人を愛される。愛の深さに驚くばか
りである。
 その後逮捕されたイエスは、大祭司の家に連れて行かれた。ペテロもその後について行ったが、「イエスを知らない」と3度否定した。イエスは振り向きペテロを見詰められると、ペトロは「私が予告した通り鶏がなくまでに、3度私を知らないと言う」(61)予告が、
現実となったことを知り、庭の外に出て、激しく泣いた。
 この61節の「主は振り向いてペテロを見つめられた。」記事はルカだけのもので、他の福音書にはない。ペテロは弟子の中でただ一人、イエスの後について行った。それだから、敢えてイエスが、後ろを振り返えられた。ペテロにとり、大祭司の庭まで忍び込むことは、命懸けであった。知らないと言っても捕まる可能性が大きかった。場合によってはイエスと同じ運命をとることが予想された。 
 命がとられる危機的状況の中で、「イエスの仲間です」と言えない。それでも、ペテロは、主について行ったのだった。もし私がペトロの立場に置き換えたら、ペトロの真似をすることはできず、イエスの後について行けない。ペテロはイエスを裏切られたが、私からすれば立派なペトロである。
 闇の中で、人々がイエスの身柄を拘束し興奮冷めやらない雑然とした最中で、イエスの目にペテロの姿が入られた。イエスのじっと自分を見つめるまなざしを目にしたペテロは、もはやそこにいたたまれなくなり、中庭から飛び出して、外に出て激しく泣き崩れた。そして、これがイエスとペテロの地上での最後の別れとなった。しかしペテロは、この最後の主のまなざしから逃れることはできない。ペテロは、この時ほど、自分の罪、自分の弱さを示されたことはなかっただろう。そしてペテロの裏切を赦し、愛してくださるイエスの愛のまなざしに耐えられなくなって、外に飛び出して男泣きに泣いた。泣かざるを得なかった。
▢まとめとして
 この地上での主の最後のまなざしを、そして、激しく泣いたあの夜のことを、ペトロは生涯忘れることはできなかったであろう。ペテロの使徒としての新しい働きの出発点、それは、この時のイエスの愛のまなざしであり、それに答えた激しく泣いたペテロであったと確信する。イエスは振り向いてペトロを見詰められたのは、ペトロの他の弟子にはない勇気があってこそである。イエスを振り向かせたペテロを見倣いたいと思う。