愛について-善いサマリア人から学ぶ- 

2012年9月16日徳島聖書キリスト集会  西澤 正文 

今回は、聖書の中心テーマである愛について-善いサマリア人から学ぶ-と題して話をさせていただいた。 

 この善いサマリア人の話は判りやすく大変美しい内容である。イエスと律法学者のやり取りの中で、イエスが律法学者の質問に答えられたものである。律法学者の問い「隣人とはだれか」、イエスの答えは「あなたもサマリア人と同じようにしなさい。」である。律法学者得意の定義付けの質問をかわし、愛はあなたの目の前で、今、困っている人、悩んでいる人、悲しんでいる人、淋しさに包まれている人、傷ついている人の隣人になりなさいと諭した。「隣人とは誰か」の理屈の問題でなく、ズバリ愛する人になりなさいである。 

 

 イエスの愛の行為は、聖書の中でイエスならではの数々の御業を通し、孤独や苦しみの中で生活した名もなき多くの人々を救われた。このようなことを考えると、愛は、愛の概念、理論を学ぶことでなく、実行こそ価値があり、イエスの地上での生涯を思い起こせば素直にうなずくことができる。

 

 愛は具体的である。どんな小さなことでも良い、ことの大・小は問題でなく、自分に示されたできることを行うことである。例えば、苦しんでいる人のために祈ること、ハガキ・メールの送信、電話、訪問等々。祈りは何時でも、誰でもできる。体力・年齢に関係なく、水野源三さんの様な、あるいは私たちの身近な勝浦良明様のような寝たきりの人でもできる。ハガキ・メールは短時間に簡単に発信でき、電話は肉声により元気かどうかうかがうことができ、また、一方通行でなく気持ちを交わすことができる。また、訪問は顔が拝見でき生活の様子も分かる。以前浜松市の溝口正先生から、「浜松は各自家庭・病院等訪問する日とし、第3日曜日は集会を開いていません。」とお聞きしたことがあったが、これこそまさに隣人愛実践の日である。 

 

 このような具体的な愛の行為の裏付けに欠かせないのが、愛する人をできるだけ深く・詳しく知ることである。祈の対象となる人が、現在どんな状況に置かれ、どんな悩みを抱え苦しんでおられるのか少しでも詳しく知ること、このことにより相手の実態に合う祈り、深く、熱い祈りができるのである。近年「個人情報」「個人情報」と、個人に関する情報の取扱いに対し注意を喚起する社会になった。個人情報取扱に過敏になった発端は、ごく一部の悪徳業者の金儲け目的の暴走があったからである。この一部企業・個人の行為、いわば「諸悪の根源」の追求、取締りを疎かにし、国民の側だけに自己啓発、自己防衛を促すのは本末転倒である。このことが社会全体に警戒心をあおり、人を信頼しない人間を育てているように思う。愛のためには個人情報保護という一見社会受けする今日的潮流に従うだけでなく、時にはその潮流を乗り越えなければ善いサマリア人にはなれない。 

 

 イエスはまた「自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」と言う。イエスの地上の歩みがそれを実証された。あなたも私に倣えと教える。しかし単純に命を捨てることを説いているのでない。神様からいただいた我々一人ひとりのかけがえのない命は、簡単に捨てられるものではない。イエスの真の教えは、「隣人のためにあなたの命を削りなさい、犠牲を払いなさい」である。あなたの大切な時間、エネルギー(体力)、金を隣人のために差し出しなさい、との教えである。 

 

 そして最も大切な教えは、隣人になれる人は自分自身の愛の不足を常に自覚している人であるということである。愛の不足を自覚するたびに、神のもとへ帰り、自分の罪、弱さ、力不足の赦しを願う人になりなさいということである。そして再び神の愛、聖霊をいただき、元気な人間になって隣人を愛する。イエスの隣人愛の教えは、愛の実践、愛の不足の自覚、神の赦し・癒し、再び愛の実践‥‥この連続である。 

 

私の近くには多くの傷ついた旅人がいるのに、敢えて視界から消し去ろうと反対側の道へ進もうとするもう一人の私、律法学者のように建前だけの弱い私が共存する。現実の私自身の姿を見つめると、何としても神様に寄りすがって行かなければ愛の人になれないことを自覚するばかりである。そのことを善いサマリア人が私に改めて教えてくれた。 

 

<感想> 

○今年の西澤兄の講話は「善いサマリア人から学ぶ」でした。ある人が追いはぎに襲われた。通りかかった

祭司とレビ人は、その人を見ると道の向こう側を通って行った。ところが、サマリア人は憐れに思い近寄っ

て介抱した。この追いはぎの隣人とは誰か?この教えから、目の前に苦しんでいる人、困っている人誰もが

隣人である。自分の時間、エネルギーを捧げて、例えばメール、葉書、訪問など具体的にできることをする

ことと聞いて自分の愛のなさを知らされました。イエス様に愛をいただいて、少しでもできることをしてい

きたいと思います。(桜井保子) 

 

15日午後、学びの後キリスト教信仰のきっかけを参加者が簡単に証しをしました。皆さん病の中、苦しい

状態の中から神様に出会い、導かれたようでした。神様は人の弱いところを知り、憐れんでくださるやさし

いお方であると改めて思わされました。ハレルヤ! 主日礼拝では、ルカ福音書10章の「善きサマリア人」

の箇所を講話してくださり愛について多く教わり感謝でした。けが人を助けた善きサマリア人のように、隣

人への愛を実践することはなかなかできないですが、私たちにできる祈り、手紙を書く、訪問など小さいこ

とから実践を始めたいと思います。(奥住芙美子) 

 

○大切なのは、愛の実践を行うこと。実行するには、大切にしている時間、力、お金などを捨てて命がけで

行うここと学びました。それらを実行するには、神様からの罪の赦し、神様からの愛、聖霊、神の御手が、

私たちの心に注がれ、清められ、祈りによって力をいただいて初めて行うことができるのではないかと思わ

されました。私の職場にいろいろな問題があって、祈って祈って出勤した時、「いつもの熊井さんと違う」

と上司から言われたことがあります。神様から一人ひとり与えられているタラントを使っていくことの大切

さを学びました。新聖歌426「世には良き友も」が思い浮かびます。賛美です。(熊井ちづ代)