ひとり神のみ前に立つ

□はじめに

 「無限大の力や美、清い本質などを見つめるときには、人間の持っているものはどこまでも小さくなる。人間の差が大きく見えるのは、神を見つめていないからである。」(吉村孝雄兄発行「いのちの水」7月号「神を仰ぎ見る-方向転換の重要性」)私の目はこの文から離れず、何度も読み返した。神と向き合うことがとても弱いと気づかされたのである。

ここから少し聖書に登場する神に信頼する人々を紹介したい。

□旧約から

詩人ダビデは、誰に遠慮することもなくありのままの気持ちを表す。なりふり構わず神に迫り、思いの丈をぶつける。その迫力に圧倒される。「神よ、私の祈りに耳を傾けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。私に耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。私は不安です。」(詩編55篇) この気持ちの背後に、ダビデ自身、神への絶対的信頼がある。神こそわたしの岩、わたしの救い、砦の塔‥‥このような御言葉が幾度となく登場するのを見ても理解できる。

□新約から

(1)盲人の叫び

「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。‥‥イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。 そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコによる福音書10章) 

盲人は、このチャンスを逃したら後にも先にももう無いと直感し、意を決しイエスの前に進み出て、力の限り叫んだのである。全てを投げ出し、正面から迫った。そして盲人の熱い思いがイエスに届いたのであった。 

(2)イエスの服に触れる女 

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。‥‥すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。‥‥女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」(マルコによる福音書5章)

先の盲人と同じで、今このチャンスを逃したら後がない、との思いで行動を起こした。但し、盲人との違い、大きなそして大切な違いが一つあった。正面でなく背後からイエスに迫った。それだから、イエスが「振り返った」のである。しかしイエスは、後ろからでも気づくお方である。全てお見通しなのである。イエスは言われた「前に立ちなさい」と。そして女はイエスの御力が恐ろしく、また、苦しみから解放された喜びに震えながら、勇気を出して、「ひとり、神の御前に立った」のである。 

まとめとして

 「ひとり、神のみ前に立つ」ことの大切さについて記したい。

(1)神の戒めは、まず神と私の関係、次に私と隣人の関係であること。 

新約聖書に新しい戒めが記されている。第一は、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くし主を愛しなさい、と。そして第二は、隣人を自分のように愛しなさい、と続く。この第一、第二の順番に大きな意味がある。隣人については、すぐに思いつく。 例えば、近所の人とか家族兄弟等、身近な人は具体的に浮かぶ。しかし、神になると、見えないこともあり、隣人と比べ具体的なイメージが持てないのが現状である。しかし、十戒を見ても、初めの1から4の戒めは神についてであり、5から10は人についてである。わかっているつもりの神、さらりと前を通り過ぎてしまう神、今になって私自身、そのような神であったことに気づかされたのである。

(2)地に立つ十字架を仰ぐ

十字架は、縦棒と横棒が結ばれる。縦棒は、今日のテーマである神と人の関係、横棒は、隣人との関係といえる。まず縦棒があって、その縦棒に横棒が結びつく。地に縦棒が突き刺さり、その上に横棒が結ばれて地に立つ。隣人愛は、神との関係が確立されてから、神によって、神の愛が、神を信じる者を通し施されるのである。地に立つ十字架を仰ぎ、隣人愛はあくまでも神の愛から生まれることを忘れないでいたい。

(3)主の仲立(介在)による兄弟姉妹 

 私は、信仰を与えられて間もない頃、キリスト者との文通に「主にあって敬愛する‥‥」「主のみ旨ならば‥‥」「主赦されれば‥‥」等、馴染みのない表現に出くわし、ぴんと来なかった。率直に言えば、奥ゆかしいというか、格好つけ、素直でないように感じた。しかし、しばらく経つと自然と理解することができた。キリスト者は、常に神が介在し、生命や日常生活など全てが、神により支えられていると悟り、当然のことと受け止めた。

(4)勝浦良明兄の病室

 兄は、寝たきりの全介助、最重度障がいのため、何十年と病院の一室で生活している。おのずと兄弟姉妹との交流も限られている。初めて病室を訪ねた時の緊張感は、表現のしようのないものであった。どのような顔をし、どのような話をしたらよいのか、顔を見てよいのか‥‥。恐る恐る病室に入った瞬間、今まで感じたことのないものを感じた。「病室が聖所」、そう感じた。神が勝浦兄の直ぐ近くに臨まれ、見守っておられる、そう思ったのだった。間近から、真正面から神に向き合う所はどこも聖所となる、このことを示された。

□終わりに

「ひとり、神のみ前に立ち、被造物として、あなた自身の小さき者の姿を忘れずにいなさい」、私に告げられた言葉である。ここが信仰のはじまりであるように思う。


聖書講話をお聴きして

筒井百合子

 いろいろな聖書の箇所を引用され、教えていただきました。出エジプト記6章2節以下では、神が、自分自身の小さな器ばかり見つめるモーセに対して怒りを込めて「私は主である」と4回も繰り返し言われる。マルコ福音書10章46以下では、神に対する信頼、自分自身を神に委ねる盲人バルティマイのなりふり構わずイエスに迫る者は、必ず願いが叶えられる。また、マルコ福音書5章25節以下では、長年出血の病に苦しみ続けた女性に対するイエスの優しく愛情溢れる慰め、励ましの福音の言葉がある。

 神、主イエスは、どんな時でもすべてを見通されるお方である。従ってどんな時でも神、主イエスを信じ、委ねることが大切である。私たちは日々の生活の中で、自然に親しみ、学び、また散歩の時の風の流れを感じ、神様を慕う、このような時間と場所を多く求め、確保することが大切である。

 講話をお聴きし、私もそのように感じ取っていきたいし、また神様に従っていきたいと思いました。

「ひとり、主のみ前に立つ」信仰      

                                      西條 晴美

  旧約の引用では、自分ひとりでは無力で『逃げ出したい。無理。』という状況は多くありますが「わたしは主である。わたしは必ずあなたと共にいる。」と言ってくださる神さまの助けがあれば乗り越えられるのだと思いました。

 新約の引用では、二人の女性は長年の辛く苦しい状況から、真剣にイエスさまに救いを求め、逢いに行き、祈る気持ちで打ち明けたのだと思いました。

 「神さまを慕い求める場所と時間をしっかり持って信仰生活を送る」ことの大切さを教えて下さり、感謝です。祈りの中で神さまと1対1で向き合い、自分の不安・悩み・苦しみをすべて打ち明けて、委ねる信仰をもちたいです。

 「十字架の縦棒は神と私たちの関係・横棒は人間同士」の話も心に残りました。


西澤 正文氏による特別集会に参加して

                                                    中川 春美

 独立伝道会のお働きで今年も西澤さんが徳島に来て下さいました。今年は長野県の関聡さんもご一緒でした。。

 西澤さんのお話しは、詩編93編や55編から、ダビデは神様に、なりふりかまわず叫び祈り訴えている。私達もこのように心から神様を信頼し心を開いてありのままを神様に聞いていただく事が大切だと学びました。

 そして新約での必死な信仰の例を二つ話されました。

 盲人バルティマイが、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と多くの人が黙らせようと叱りつけるのに構わず必死で叫び、その結果癒され、イエス様に、「あなたの信仰があなたを救った」と信仰を認めていただいた事が一つ。

 二つ目は、12年間も長血を患う女性が、イエス様の服にでも触れたら癒されると信じ、後ろから服に触れると、たちまち病気が癒された事。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と同じようにイエス様に信仰を認めていただいた事が話されました。

 必死な叫びは神様に届きます。病気だけでなく、日々の生活に起こるわずらいや心配事、孤独や弱点や失敗等、何でも神様に聞いていただき、明るく乗り越えていきたいと思いました。ダビデもそうでしたが、すぐには聞いていただけない事も叫び続け、求め続けていけば、必ず祈りは聞かれると信じ、希望をもって歩みたいと思いました。

 また、西澤さんから、私達はまず第一に神様に向かって叫び、求め祈り、神様との縦の関係をしっかりし、上から力を頂いて、横の関係の隣人を大切にする事ができるとも学びました。

 何かあるとまず人間を思うのではなく、まず神様に向かう。必死に祈り求め、心に平安が来るまで神様と過ごし、それから隣人に具体的に対処するという順番を学びました。