コリントの信徒への手紙Ⅰ6:1-20      2024.1.28

                                     西澤 正文

テーマ: 信仰のない人々に訴え出てはならない(1)

 キリスト者は、神の前でどの様な生活をしているか、これが私たちの一番の関心事です。ですから、神の前で生活していることを忘れないようにしたいです。人からどう言われようがそれは問題でなく、ただ真理に忠実であるかどうかを大事にしたい。

 イエスは裁判の時、何も答えませんでした。どうしてでしょうか? イエスの心は神に向っていたからです。世の裁きに関心がありませんでした。神を信じる私たちは、ただ、生ける神の前で自分がどう生きるのか、この事だけを大事にしたいです。神の前で正しければ、人が裁いてもどう評価しようがいいのではないか、と。

 この世は利害、損得で動く事が多く、また、この世の評価も時代の人の基準で評価されます。ですから自ずと人に関心が向き、流行り廃りの波の中で右往左往しながら生活するのが現実です。しかし、神を信じる者は、この世で自分が主体となり、主人公となり生きるのでなく、生かされている受身の立場で生活します。大胆に、はっきり言ってしまえば、クリスチャンの人生の主役はイエス、私たちはわき役です。

 

 旧約聖書出エジプト記では、苦難に遭われたイスラエルの民をエジプトから脱出する際、神はモーセをリーダーとして召命しました。ところがモーセは、口が重く人の前に立つ器ではないと神の召命を受けても執拗に拒否した。その時の神の口説いた言葉は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」また「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」(出3:14,15P 97) 私はあなた方がこの世にあなた方が誕生する以前からあってあるものだ、と強くモーセに訴えられました。

 モーセが神の召命を受け入れたように、私達もまず、私とイエスの関係=イエスの死により今の私の命があり、イエスの福音により今生かされている、その思いに満たされることに力を入れるべきです。

▢まとめとして

 キリスト者はこの世では何事にも支配されすず、自由に生活しましょう。ただ聖霊をお迎えし、体に聖霊をお迎えし聖霊と共に生活しましょう。