ルカ14:25-35                  2018.11.11
テーマ:弟子の条件は、肉親を憎む覚悟がいる
 イエスは、一緒について来た群衆に、振り向いて言われた。その振り向いての意味は何だろうか? イエスは、今まで、天国で大勢の人が集まり飲食を共にする楽しいひと時の大宴会のたとえを話された。イエスの言葉を聞いた人々は、気分も良くなり、話が終わってもぞろぞろとイエスの後について行った。そこでイエスは「振り向いて」とは、今までと異なることを話すぞ、今までは楽しい話であったが、これからは厳しい話、聞くあなた方一人一人の態度、生き方が問われる話をするぞ、との前触れだった。
 神の国の招きとこの世の楽しみ、利益が同時にやって来た時、どちらを選ぶかにより、永遠の命の救いに入るか、入らないかが決まる。あなた方は、ぞろぞろ私の後についてくるが、私の弟子になるには、「父、母、妻、子供、姉妹、自分の命まで憎まないなら、弟子になれない」との考えを示された。憎まないなら、とは、捨てる、より一段と厳しい言葉であった。
 イエスに従うとは、肉に繋がるこの世の要求がわたしを拘束するなら、聖なる怒りが「サタン、退け」と言う憎しみの声が発せられる。これは、イエスを愛する私たちの愛から生じた聖霊の働きである。私たちは聖霊の働きによりイエスに従おうとする時、サタンも同時に猛然とイエスを私たちから引き離なそうとする。そのことを想定し、イエスは「憎みなさい」と話された。
 厳しい戦いであるが、これが「自分の十字架を背負ってついて来なさい」である。この戦いを通らなければ、私たちはイエスに属することはできない。イエスに従う人とは、イエスと生死を共にすることなのである。 
 イエスに従う者になって、始めて一度憎んだ父母をはじめとする肉親、わが命を真に愛することができる。真の愛の交わりは、イエスを通し、肉親と永遠の命に導き、肉親をイエスに結び付かせることができる。これが真の愛である。
28-32は、イエスは、弟子になれば犠牲も生まれる二つのたとえを話された。一つは、塔の建設(神の国建設)、もう一つは、サタンとの戦いについてである。塔の建設工事着工前にしっかり予算立て、完成を目指す。また、戦いを開始する前に勝算の有無を考え、勝算有りにより開戦する。
 イエスは、従う者、弟子になる者は、命を懸け最後までイエスに従う意志を求める。それは、厳しさを持たなければ、途中でイエスから離れて行ってしまう。そうなら初めからついてこない方がその人のために良いからである。
自分の意思をはっきりさせた者が、初めて神の国の宴に就く喜びが与えられる。手にした物一切を捨てなければ、弟子になることができない。余分なものを捨てて初めてイエス一人に集中することができる。
▢まとめとして
 イエスの愛、キリスト教の愛は肉親の愛にとどまらない普遍的な愛、隣人愛の隣人は全ての人を対象に愛する。従って、その中に肉親が含まれる。イエスの愛を知った母マリアは、親子の関係を越えて、イエスの死後、イエスの弟子たちの輪に加わることができたのだった。(使徒言行録1:14)