ルカ19:1-48                 2019.1.19
テーマ:主がお入り用です(34)
 19章は、イエスのエルサレム入場前、つまりこの世を去る約1週間前の出来事である。 
 イエスの愛された徴税人ザアカイの住むエリコの町は、エルサレムまで約20Kmで、半日歩けば到着できる。エリコは、交通の要所で物流が盛んな町で、人々が行き交うにぎやかな様子からも、エルサレムが近いことが想像できる。
 イエスは、ザアカイにお会いした後、一つのたとえを披露された。「立派な家柄の人」=イエス、この方に従うか、反発するか、の話である。神の国が現れるのは、イエスがエルサレム入りしても実現しない。ムナのたとえは、いよいよイエスが、この世の王として再び現れる時、人はそれぞれ預かったムナ=頂いた恵みをどれ程活用したかによって、差が現れる。イエスを信じるか信じないかの違いは、イエスの復活、再臨の時、はっきりとするので、その時まで与えられたムナ=恵みを活かして生活しなさい、と教えられた。
 イエスはさらに歩みを進め、エルサレムに隣接するべトファゲ、ベタニアの町に入られた。そこで弟子に指示された。村へ行けば、誰も乗ったことのない子ろばが繋がれているので、引いて来なさい。もし誰かが尋ねたら「主がお入り用です」と言いなさいと。
人々は、イエスがエルサレムに入り、ローマ帝国の軍隊と衝突し支配権を手に入れ、人々のために王になることを期待した。(11) また、弟子達は、ローマ帝国の軍隊と衝突して内乱となるか…、イエスの為さった数々の奇跡を思い出し讃美しつつエルサレムを目指し歩みを進めた。(37)
 ここで注目したいのは、ロバの子である。当時、王が乗るものと言えば馬であった。馬はロバよりもはるかに大きく、堂々としている。しかしイエスはロバ、しかも、子ロバに乗られた。 
 イエスとイエスの乗られる子ろばは、イエスとイエスを信じる人との関係を示しているのではないだろうか。子ろばは、イエスに呼び出され、イエスをお乗せするという光栄にあずかった。キリストを運ぶ器として、用いられた。そこにキリスト者の喜びがあるように思う。自分が高くされなくても、賞賛されなくても、認められなくても良い。ただイエスがほめたたえられるために、この私たちも用いられるということ、これこそキリスト者の本望である。
 「主がお入り用」であると言われれば、離れた村の子ろばでも、連れて来ることが出来た。イエスのひと言であれば、その通りになった。私たちを主の弟子としてくださったのは、イエスご自身である。イエスは言われた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16) イエスが私たちをお選びになったのだから、私たちは主を信じることができたのである。
▢まとめとして
 私たちは、私たちのような者をも救ってくださるイエスを証しする器として、イエスをお乗せするロバの子として用いられる。「主がお入り用なのです」の主の声掛けは、あなたを必要とされている、このことを改めて自覚したいと思う。