マタイ10:1-25        2015.3.15

1-4 12人を選ぶ

イエスは前もって弟子ひとりひとりに声を掛け、弟子になる意思を確認し、12人を呼び寄せたていた。そして汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、思い煩いを癒す力を与えられた。12人の内、福音書に紹介記事が載っているのは、一部の弟子である。ペトロと呼ばれるシモン、兄弟アンデレ ゼベダイの子ヤコブ、兄弟ヨハネ、これら4人は漁師、マタイは徴税人で、ローマ政府、領主から税の取り立てを移植された役人であり、異邦人のために働くその一方で自身の私腹を肥やすためユダヤ社会で嫌われた人物、シモンはユダヤ人の宗教的政治集団である熱心党に所属し、ローマ帝国(=異邦人)の支配に反対意思を示しメシア支配実現のため武力行使を認める人物。12弟子について、特に詳しい紹介記事はない。これは特筆すべきものがない、いうなればどこにでもいそうな人々である。これは何を意味するのか、それは、誰でもイエスに用いられ、どんな人もイエスの弟子になれるということである。実際、我々の身近なレーナ・マリア、水野源三、星野富弘、徳島聖書キリスト集会・勝浦良明さんたちは、身体に障害のある人々、寝たきりの人、電動車いす使用の人であり、大きなハンディがあり、行動に制限ある。にもかかわらず、多くの人々に熱いメッセージを送り、感動を与えた。神は御心に適えば、どんな人も弟子として用いるのである。

5-15 12人を派遣する

イエスは、弟子12人を派遣するにあたり、子供を見送る親のように細やかに愛情込めて心得を教えた。派遣先は、危険を避け、「イスラエル(ユダヤ人)の家の失われた羊のところに行きなさい」(6)と。飼い主のいない羊のように迷っている人々のところに行きなさいと。そこに行ったなら、イエスが地上に現れ、救い主イエスを信じる人の心の中に天国行きの道が開けたこと(=福音)を述べ伝えなさいと。そして、余分な持ち物は持たず、最低限の持ち物とし、福音を述べ伝える任務に邁進、集中しなさいと。また、もしあなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、そこを去る時、「異邦人の習慣」から自分たちを切り離すことを示すため、足からチリをはらい落としすことまで指示を与えた。優しく、また、毅然とした態度で伝道するよう、親のように説いた。

16-25迫害を予告する

16「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」そしてここに至り、いよいよイエスは迫害を予告する。狼は、凶暴性があるが、訪問先では狼のような弱い人、隙ある人に襲いかかる自分本位に生きる人々がいる。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」(マタイ7:15)外見では見分けがつかない人々がいるのでよくよく注意を払うよう教える。

19「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。」

 「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である。」

 信仰とは、神にお任せであり、体を神に捧げ、霊の宮として生きる。神のみ心が何処にあるのか尋ねつつ、祈りながら生活、一心同体に生きるのである。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ書2:20)このような心境となり、全て神に委ね、神中心となり生活する。そして、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(22)最後は、“ただじっと耐えていれば救われる”というものではなく、受け身、消極的な態度でなく、神に身を捧げる、お任せすることのできる人の勇気ある意志を備えよ、と勧める。能動的、積極的に生きよと。

まとめとして

・弟子はどんな人でもなれる。職業、資格、家柄等この世に付属した肩書きは一切関係ないのである。また、その人その人の方法でキリストの恵み、福音を伝えることが出来る。

講演会、礼拝の話しで、黙々と働く後ろ姿で、日常生活を平安に過ごす姿で、柔和な顔、優しい声掛けで、ハガキ一枚・電話1本で、人々に多くの感動を残し神の弟子の働きができる。

・今まで与えられた恵み、祝福を感謝し、今度はそのお礼に人々に恵みをお裾分けしなさい。受けるばかりでなく、恵みを循環させることで「天国行き」の人々が増え、天国で再会する望みをもつことが出来る。

・困難に直面した時、その人の信仰が試され、神を本当に信じる者の態度か否か見極められる。困難は信仰の試金石となり、困難に会う度に信仰が強められるチャンスとなる。