ルカ21:1-19           2019.2.10
テーマ:やもめはだれよりもたくさん入れた
 ここではやもめの献金に焦点を絞り、考えたい。
 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、…金を入れる様子を見ておられた」(マルコ12:41)と書かれているように、目を凝らして献金する人々の様子をジッと見詰めていた。その時、大金持ちと貧しいやもめが献金した。金持は、たくさん入れた。一方、貧しいやもめは、レプトン銅貨2枚(約150円)入れた。イエスは言われた。「やもめは誰よりもたくさん入れた」と。その理由は、金持は、有り余る中から、一方やもめは、自分の持っているもの全て、生活費全部を入れたからでると。
 イエスがやもめの献金を褒めたのは、額でなく、残した額がなかったからである。イエスは、献金の額には関心がないようで、献金しない額を問題にしている。そのためにやもめの献金は一番多かったと言って褒められた。献金は、神に信頼する感謝である。感謝の気持ちのない献金は、ドブに捨てるようなものである。献金する姿は、神への感謝の深さを表す。
 口語訳聖書では、金持は「投げ入れる」とあり、女はただ「入れる」とある。金持ちは、人前に誇るように、胸を張り見せびらかすように、女はこっそりと入れた。これは、金持の献金は、硬貨に重さがあり遠くから投げても賽銭箱に届く。その時、硬貨が重いため、乾いた音が鳴り響く。金持ちは、この音を天に響かせたいため、人に知られたいための献金である。一方で女は、レプトン(最小の通貨)で軽く、投げたくても賽銭箱には届かない。投げることができないため、賽銭箱の直前まで行って手で入れるしか方法がないのであった。賽銭箱の直前まで行くことは、少ない額を献金することの証しであった。やもめは、この恥ずかしさをかなぐり捨てて、ただ主に感謝したいために、人目を忍んで捧げた。賽銭する時の心は、ただ神への感謝の気持ちで満たされていて、人の事を思う余地は全くない状態であったと思う。イエスは、この様子を見逃さないのである。
 イエスの山上の説教では、神と自分との1対1の関係でする行為、人目につかない行為を褒める。英雄気取りのささげは神のところに届かない。イエスは、地上で報いを得ないような生き方を尊ぶ。イエス以外の誰の目に入らない女の献金を、イエスは私の友として見つめている。献金の額は、だれよりも少ないレプトン銅貨2枚であった。しかし、誰も手にすることのできない大きな恵みを手に入れたのであった。やもめほど幸福感を味わうことのできる人はいないのではないだろうか。
■まとめとして
 イエスの見られるのは、献金する姿ばかりでない。イエスは、常にどこでも私達の生活の様子をじっと見つめておられる。最近よく言われる監視カメラではないが、イエスの目は、監視カメラのように、いつでもどこでも私たち一人一人をジッと見つめておられる。私達はそのことを忘れ、都合のよい時だけカメラを意識したり、悪い時は言い訳をしたりしないようにしたい。
この世を去り天国へ行けば、ドライブレコーダー(運転記録)ではないが、神、イエスの目には、地上の記録(生活の様子)を巻き戻し、それをもとに評価される。どんな時でも、神、キリスト・イエスを見詰めて生活しなければと願う。