神の御業が現れるため

 

2013年9月15日徳島聖書キリスト集会  西澤 正文(静岡県)

 

 前日の14日、台風18号の動きを気にしつつ、新幹線広島行「ひかり」の乗客となった。3連休初日とあって乗客が多かったが何とか空席を見つけひと息ついた。愛知県に入る頃から胸の痛みが気になっていたが、今までも時々あったのでそれほど気にしなかった。しかし今回は少し違った。痛みが長く続く上、収まってもまた直ぐ痛みが出た。集会の講話の責任を果たせるか‥‥、一人でホテル滞在中大丈夫か‥‥等、気弱なことを考えているうちに新神戸駅に到着。バスに乗り継ぎ、人、自動車が集中する徳島駅前で無事に吉村様と合流した。再会を果たすなり「体調はどう? 朝早くから電車に乗り体を動かしていないでしょうから、駅裏の徳島公園を少し散策しましょう」と誘われる。園内に入るとどこからともなく吹いて来る爽やかな風のお出迎えがあった。蝉の声を聞きながら、樹木にすっぽり覆われたなだらかな細い小道をゆっくりゆっくり登れば、汗ばんだ身体に当たる涼風が一層ひんやり感じられた私の体は、いつしか胸の痛みから解放されていた。それにしても、私の体調不安を察知していたかのような吉村様の散策への誘いは、今日の講話「盲人の苦しみを察知したイエスの御業の行為」に重なり、盲人同様私も吉村様を通し神様の不思議な御業を感じたのであった。

 

 今回、ヨハネ福音書9章、特に1節から12節を中心に「神の御業が現れるため」と題しお話した。イエスはエルサレム郊外を歩いている時、道端に生まれながらの盲人が座って物乞いしている姿を目にした。同行した弟子たちが「生まれつき目が見えないのは、誰か罪を犯したからですか。本人、それとも両親ですか」とイエスに投げかける。イエスは「本人、家族が罪を犯したからでない。神の業がこの人の現れるためである」と答える。このやり取りの背後には、イエスの一瞬たりとも見逃さない道の端に小さくうずくまる盲人の存在、哀愁を帯びた憐れな姿、更には心の底に沈む救いの渇望を鋭く察知するイエスの愛溢れる眼差しがあったのである。

 

 弟子たちの質問は、見えないのは何故か、きっと過去に本人、あるいは両親が悪いことをしたから、それが呪い、たたりとなってこの人を苦しめているのでは‥‥の思いがあった。イエスは当時のユダヤ社会、その支配者たるファリサイ派の人々の考え「お前は罪の中に生まれた」(34節)を遮断する意味も込めて弟子たちにあのように答えたのであった。

 

 イエスはこの因果応報的発想を断ち切ったのである。振り返っても取り戻せない過ぎたことをあれこれ考える必要はない、否、してはいけないと言う。過去は遠くても近くても、過去は過去であり、過ぎたことは人の手には届かない。目線を「後ろ」でなく「前」へ、「昨日」でなく「明日」へ向けなさいと促す。そして「今まで」でなく、「今から」の人生を大切に生きなさいと勧めるのである。

 

 イエスのこの答えの根底にある精神は、「もっと自分自身を大切にしなさい」との教えである。自分を愛することは、他人と比べたとえ見劣りしても、「これが私です」と、ありのままの私を素直に受け入れることである。自分を本当に愛すれば「これしかできない私」であっても、「よし、目一杯生きていこう」とする誠実さが生まれる。盲人の実生活は、孤独、貧困、人には言い知れぬ悲しみ、不安があるであろう。その中で神は、「私だけが何故」でなく「何の目的でこの試練を与えられたのか」と神に目を向けること、神に繋がることを待ち望んでおられるのである。

 

 盲人は、今まで聞いたことのないイエスの優しい呼掛け、招きに今自身がどのような状況に置かれ、何をされようとしているのか分からず、不安であったであろう。しかし、為されるまま、言われるままに従った。イエスの「シロアムの池に行って洗いなさい」の言葉に従い、光が生まれたのであった。この事実を通し、信仰は理屈でなく、信じること、感じること、そして御言葉に従うことを私たちに教えている。

 

 イエスの弟子達への具体的な答えは「神のお遣わしになった者を信じること」(ヨハネ福音書6:28)である。実際に、盲人のイエスにお会いする前と後ではガラリと変わった様子が9章に記されている。「知りません」(12)、「あの方は預言者です」(17)、「あの方が神からにもとから来られたのでなければ何もおできにならなかった」(32)、そして最後に、ユダヤ社会から追放され途方に暮れている時、自分のところに近づいて来られたイエスを前に、堂々と「その方を信じたいのです」(36)、と願い出た。最後に「主よ、信じます」(38)と信仰告白する人間に生まれ変わったのである。ここに来て神の御業が盲人を通し現れたのである。

 

 盲人は、光が生まれたと同時に霊眼も与えられ、人生において本当に大切なもの、救い主イエスを信じることに気づき生まれ変わったのである。一方、ファリサイ派の人々は視力が与えられても、「見える者は見えないようになる」(39b)とまで言われ、イエスを知り、受け入れようとしない。この世のこと、自分のこと、過去、伝統に心が塞がれ、イエスから離れ、自由もなく身軽さもなく、風の流れ、聖霊の働きを感知できない固定化した生活から抜け出せないままである。

 

 前を向き、天を仰ぎ、そしてイエスの言葉に従った盲人の姿を追い求めつつ生活したいと思う。

 

(参加者感想)

〇「決して変えることのできない過去を問われる時、その人はうな垂れて『その通りです』としか言いようがない」というお話に、本当にその通りと思います。西澤さんは、この盲人に成就した「神の御業」が「神がお遣わしになった者を信じること」とお話し下さり、そこが福音として特に心に響きました。人間は突然思いがけない程弱くされたり、苦悩の淵に沈んだりしますが、「イエス様を神様と信じる」という一点をしっかり握っていれば、それだけで必ず救っていただけるという希望をいただきました。会堂から追い出されたこの人に、イエス様は本当の救いを与えられました。イエス様の、たった一人の人を大事にされる深い愛の御心を教えていただきました。                          (中川陽子)

 

91415日今年も遠方を、独立伝道会から西澤兄が来徳され共にみ言葉の学びをすることができました。14日は午後、植物(花や葉などをよく見て)の名前を調べたり、またルーペで観て、その繊細な姿に感動したりしました。手話も少しして、聖書も短い箇所を学びました。 15日の主日礼拝では、西澤兄から「神のみわざが現れるため」と題して、ヨハネ福音書9章を中心に学ぶことができました。当時生まれつき目の見えない人に対する人々の心中には、彼が罪を犯したから見えないのだという見方がありました。しかし、イエス様は「この人に神のわざが現れるためだ。」と言われて、盲人を癒されました。年に一度の来徳であっても、集会にとっては喜ばしい共に学び、交われる貴重な時です。伝道会の皆様の働きが祝されますようにと祈ります。                                    (吉村恵美子)

 

ヨハネ福音書9章1から12節までの御言葉を通して「神の御業が現れるため」と題してお話を聞かせて頂き

ました。イエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人に近づいて目を開けて下さった事が、そのまま

私の身の上にも起こりました。私は二十数年前に失明しました。その時はすでに聖書は読んでいて、このヨ

ハネ福音書9章も知っていたので「神様は私から視力を奪って私にどんな御業を現して下さるのだろう」と

呟き苦しみ悩みました。でもイエス様は、私の事を覚えて下さって、突然私の所に来て「私に繋がっていな

さい」と語りかけて下さったのです。イエス様と出会う事が神様の御業が表れるということなのだと、その

時疑問に思っていた事や疑っていた事が一度に分かって霧が晴れたような清清しい気持ちに変えられた瞬間

は今も鮮やかに思い出す事ができます。イエス様を信じ受け入れた時から私の生き方も一変しました。あた

りまえのように思っていた自然の移り変わりや四季折々に咲く草花の美しさの中にも神様のメッセージが籠

められていると心から神様に感謝ができるようになりました。西澤さんが「神の御業が現れるためにはイエ

ス様を信じ従って行くことです。」と言われました。「信仰を持つことは感じ、信じ、従う事です」と言っ

くださいました。その事がとても心に残っています。神様の恵みによって私は霊的な視力を与えられ真理

が見えるように変えていただきましたが、どんな試練の時にもイエス様を見失ってしまうことのないように

祈って行きたいと思わされました。いくら勉強や努力を重ねてもイエス様を深く知ることがなければ、空し

さばかり残ります。私の周辺にもユダヤ人のように霊的な視力が全くない人も沢山いますが、真理の目が開

かれ本当に大切な物を見ることができますようにと祈って行こうと私の心にお話を通して、また新しいちか

らを頂いた事を感謝します。                             (鈴木益美)