ガラテヤの信徒への手紙 4:21-5:15            2019.6.9
テーマ: この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(5:13)
 創世記時代、神の約束通り不妊の妻・サラとその子供イサクが、女奴隷・ハガルとその子イシュマエルにより迫害された。今、その時と同じ状況で、パウロの説く福音主義は、
律法主義にいじめられている。
 奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもと一緒に相続人になってはならない。そのことは、今のガラテヤに住む人々にも言われている。この自由を得させるため、キリストは、私たちを解放してくださった。だから、しっかり立ち、再び奴隷のくびきを負わせられないように、また、律法の奴隷とならないように注意しないといけない。
 律法主義に固く立つ人たちは、割礼はどうしても受けなければならない、と言ってガラテヤの人々を誘惑する。パウロは、その誘惑に負けず2度と奴隷の軛に繋がれるな、とガラテヤの人々に訴える。
 「この自由」(5:1)が、大切な言葉である。この自由は、律法からの自由である。以前パウロは、熱心な律法主義者であった。「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのがない者」(フィリピ3:5-6 P364)
 これほどまで、パウロは、生まれ育った環境、恵まれた生い立ち、律法主義者のエリートコースを全力で走り続けてきた。しかし走れば走るほど、息苦しさを感じていたパウロ。
 その時、「パウロよ、パウロよ、何故私を迫害するのか。」、復活されたキリスト・イエスの声を聞いた。そして回心に至った。律法から解放されたパウロにとり、回心の体験は、動かせない事実であった。神の恵みそのものであった。そして、キリストの十字架の贖いによってのみ救われる信仰を得たのだった。パウロは今まさに、この喜びをもって伝道している。自身の体験を通し、律法に縛られてはいけない! パウロの語る言葉は、聞く人々の心を捉える力強いものがあった。
 私達が神に召された(声をかけられた)のは、自由を得るためである。今までは、律法によって事細かな所まで管理されていた。今の中国社会ではないが、監視カメラで観察されていた。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、すべて否定形の命令であり、違反したら罰するぞ、と毎日おどおどドキドキの生活。しかし、神は、律法の縄目から解放するため、独り子を十字架につけてくださった。もう律法に縛られない。自分の自由意思で動くことができるようになった。
 福音は、人を律法で縛らない。だから、いやいやではなく、愛にあふれ人を助けるようになる。細かな規定はないが、唯一「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」これだけがある。(レビ19:18)
▢まとめとして
 パウロは、私たちの前に、十字架を信じる信仰だけで必要、且、十分な救いの条件は満たされる、とはっきりと語られた。それ以外、律法に、びた一文付け加える必要はない。割礼も、日、月、季節、年を守ることも無用である。
 十字架上のイエスは、この世で着ていた全ての肩書を落とし、衣服を脱ぎ、裸同然の姿であった。私達も十字架の前にイエスと同じ裸になり、ありのままの姿をさらさなければいけない。律法をはじめとすること細かな諸規定、教会内の規則、教会員を縛る洗礼、奉仕活動、献金等は、信仰上二の次のことであり、十字架上のイエスの姿をぼかすだけである。