マタイによる福音書9:1-17       2015.3.1

 イエスの御業が発揮される中、いよいよ律法学者、ファリサイ人が登場する。この人たちにとり、イエスの言動一つ一つが、自分たちが守ってきた教え、習慣と対立するものとなり、イエスの御力、影響力が大きくなればなるほど気になるものとなった。

1-8 中風の人をいやす

  イエスは弟子たちと共に自分の町・カファルナウムに戻って来た。その町で4人の男たちの手によって運ばれてきた中風の人とで出会う。その人を見たイエスは、「あなたの罪は赦された」と言った。これを聞いた律法学者は「神を冒涜している」と考え、その考えを見抜いたイエスとの間で問答が始まった。人の口から「罪が赦される」など今まで聞いたことのない律法学者は、驚きと共にイエスが傲慢に映った。罪を赦すことができるのは神を置いて誰もいない、この男は自分を神に仕立てているとんでもない奴だと。

    しかしイエスは、その疑いをあっさり晴らしてしまった。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」とイエスが言えば、中風の人は、群衆の前で、弟子の前で、そして律法学者 の前で、「起き上がり家に帰って行った」(7節)のである。神の言葉を語り、その言葉を実行されたのである。人間にない威厳をもたれた人物、神の子・イエスが現れたのである。

9-13 マタイを弟子にする

  イエスはその場を後にし、収税所の前に来たときそこに座っていた男性・マタイに「私に従いなさい」と声を掛けるや、躊躇うことなく即座に反応して従った。「徴税人」と言う職業は、当時のユダヤの社会では、嫌われた職業の最右翼であった。民衆に過酷に課税し、徹底的に徴収し、自国のみでなく、宗主国であるローマ帝国の税をも徴収し、治め、帝国に媚びるいやらしい人物と見られた。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」(マタイ5:46)このイエスの言葉で、当時の徴税人が蔑視されていたかがわかる。

「わたしに従ってきなさい」とイエスから声をかけられ、声掛けに飛びつき、多額の収入の職業も、孤独で寂しく悲哀に満ちた過去の生活に見切りをつけたのである。人には言えない辛い職業、まともに相手にされず、それ以上に職業上虚勢を張って傲慢にふるまった過去の姿を思いだし、常に謙遜な心を忘れずにいたいとの思いから、「徴税人マタイ」(マタイ10:3)の紹介にこだわったであろう。イエスに声を掛けられたマタイは、早速、同僚の仲間徴税人や罪人を自宅に招き、友人としての付き合いをし、共にテーブルを囲んで食事する気さくな人柄であった。ここに今度は、ファリサイ派の人が登場し、弟子に「何故徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」と問う。イエスは問題点の本質「神が求めるのは憐みであって、いけにえではない」とズバリ答えた。大切なのは目の前の困っている人、悲しんでいる人、病に苦しむ人、孤独な人等々に愛の手を差し出すことである。古い教え、昔からの言い伝えにより日常生活の中で習慣化したお勤め いいとか悪いとかを超え、引き継がれ守られてきた行いを守ることではない、と一蹴された。

14-17 断食についての問答

     その後、イエスのもとに厳格に断食を守るバプテスマのヨハネの弟子たちが登場し、「なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」の質問を投げかけた。自身を「花婿」と表現したイエスは、一緒に居られる時は断食などしていられない、いずれその時がやってくる、と諭す。更に、「織りたての布を古い服に当てたりしない」「織りたての布を古い服に当てたりしない」と語り、イエス自身がこの世にやって来たのは、古い教えに縛れず、もっと自由にハツラツと生活するように、新約時代到来の象徴である私に従いなさい、とのメッセージを送るのであった。新しい風が吹く時代の到来を告げたのである。

   まとめとして

   ・イエスの登場は新約時代に移ったことを示し、これからは新しい教え、福音により、全ての人に罪の救い、神と平和な関係を大切にする教えを示すために来られた。旧約の制度、引き継がれてきた伝統を固定化し、生活環境、取り囲まれた状況を敏感に察知することもなく、只忠実に守ることのみに価値を置く生活習慣から別れを告げることを教える。

・イエスと律法学者・パリサイ人の衝突は、福音(万人救済)を説き実行することと状況がどうあろうと律法を遵守することの戦いである。それはまた、我々一人一人の戦いでもあり、素直にイエスに従うのか、それとも自分自身の固定化した価値に固執するのか、の戦いである。