詩編83編             2014.5.18

 

 

 

テーマ:周辺国の策略の中での民衆の祈り 

 

1【歌。賛歌。アサフの詩。】2神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。

 

 詩人・アサフが現在、イスラエルの民が置かれた窮状を切々と神に訴える。「沈黙しないで」「黙していないで」「静まっていないで」‥‥「語ってください」と3度も繰り返し訴える。神に迫る力が伝わる。腰を据えて、心の底から願うこと、慌てず騒がず、その時の気持ちに左右されず祈ることの大切さが伝わる。そして、すぐ目の前に臨まれた神に親しみを込め願う。落ち着いているから、危機的な状況に置かれていることをしっかり認識しているから、親しみを持ちつつ本心から迫ることができる。 

 

形だけのお決まりの言葉を並べるお勤めのような形骸化した祈りを繰り返していないか、と反省させられる。その時だけのその場しのぎの祈りではいけない。腰を下ろし、心を静め、神を迎える静かな環境の中での祈りが大切である。表面的な自分本位の祈りは神に届かない。 

 

3-5 

 

3御覧ください、敵が騒ぎ立っています。あなたを憎む者は頭を上げています。 4あなたの民に対して巧みな(はかりごと)をめぐらし あなたの秘蔵の民に対して共謀しています。5彼らは言います 「あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が 再び思い起こされることのないように」と。

 

 見てください。イスラエルの敵が騒いでいます。今にも攻めて来そうです。あなたの民、イスラエルの民=「秘蔵の民」(あなたにねんごろに守られ、イスラエルの民は、40年間荒れ野をさまよいながらも旅をつづけ、約束の地カナンへ足を踏み入れることができた)、その民に策略を企て攻撃を仕掛けようとしています。あなたによりヤコブが「イスラレル」と命名され、(創世記32:29 P59)その民が12部族にわかれイスラエル全地で生活している、その民を地上から滅ぼし、イスラエルの名を地上から消そう、と企てています。

 

6-9 

 

6彼らは心をひとつにして(はか)り あなたに逆らって、同盟を結んでいます。7天幕に住むエドム人 イシュマエル人、モアブ、ハガル人。8ゲバル、アンモン、アマレク ペリシテとティルスの住民。9アッシリアもそれに加わり ロトの子らに腕を貸しています。

 

イスラエルの南部の部族であるエドム人、アマレク人、ヨルダン川東方のアラビヤ砂漠に分散するイシュマエル、ハガル人、死海東部の部族であるモアブ人、死海南部のゲハル人、ヨルダン川東方のアンモン人、そしてイスラエル北のフェニキアからティルス、地中海沿岸からペリシテ人が、皆イスラエル侵入を計画している。(聖書地図4・5)これらイスラエルを囲む民の背後に位置するアッシリア帝国も、ロトの子ら=モアブ人、アンモン人(創世記19:36-38 P27)に協力している。(聖書地図1)

 

 

 

イスラエルを囲むように位置する部族は、それぞれ部族同士の関係に温度差はあろうが、一度、それぞれの部族の利権に関係するイスラエル侵略という点で目的が一致し、このことで協力関係・同盟関係を築き、結束を密にしている。 

 

利害が一致すれば、相互の距離感が無くなる。この世も同じで利害により人間も、企業も関係が作られ、生活が営まれている。しかし信仰によって生活する人々はそのようなことはない。自己優先、会社優先の利害関係でなく、あくまでも神の御心を優先とし、隣人と共に、寄り添い、協力し合い生活する。神に愛されているように、人々を愛することを第一として生活するのである。

 

10-13 

 

10これらの民に対しても、なさってください あなたが、かつてミディアンになさったように キション川のほとりで シセラとヤビンになさったように。11エン・ドルで彼らは滅ぼされ 大地の肥やしとされました。12これらの民の貴族をオレブとゼエブのように 王侯らをゼバとツァルムナのようにしてください。13彼らは言います 「神の住まいを我らのものにしよう」と。 

 

かつてあなたが遊牧民・ミディアンにされたように、イスラエルを囲む部族も滅ぼしてください。(聖書地図2) キション川のほとりで、カナンの王ヤビン、ヤビンの将軍シセラを攻めたように。(士師記4:2 P385) そしてカナンの民はエル・ドル(聖書地図4)で撃たれ、カナンの地に眠った。ミディアンの指導者「オレブとゼエブ」(士師記7:25)、「ゼバとツァルムナ」(士師記8:21 P395)も、主の御使いの指導の下で働いたギデオンにより撃たれたように。イスラエルを囲む諸国の民は、神の選民の土地を奪おうと息巻いている。

 

14-18 

 

14わたしの神よ、彼らを車の輪のように 風に巻かれる藁のようにしてください。15火の手が林を焼くように 炎が山々をなめるように 16あなたの嵐によって彼らを追い あなたのつむじ風によって恐れさせてください。17彼らの顔が侮り(あなどり)で覆われるなら 彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。 18彼らが永久に恥じ、恐れ 嘲り(あざけり)を受けて、滅びますように。 19彼らが悟りますように あなたの御名は主 ただひとり 全地を超えて、いと高き神であることを。

 

 「わたしの神よ」、と親しみを込め、わたしの願いをしっかり聞き受け入れてください、との切なる願いである。車の輪のように、藁のように、落ち着きのなく存在感のない、とるに値しない無価値なものの例えである。「神に逆らう者はそうでない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。」(詩編1:4 P835)そんな敵どもをあなたの力によって、山を這う炎のように、つむじ風のように瞬時に処理し、恐れさせてほしい。そのことにより敵が我に返るなら、あなたを求めるでしょう。そのようなことになればわが民も嬉しいが‥‥。敵が、あなたが全地を治める唯一の支配者であることを知ることができるよう願うばかりである。

 

 

 

神の力の証明、その最たるものが風である。ハリケーン、台風、竜巻等、一瞬のうちに家屋、建物を破壊する。民が武力に頼り装備しても神の力の前では無価値に帰する。

 

人は神の前に立ち、如何に無力で無価値なものか、そのことをしっかりと認識することが大切である。そのことに気が付いたものが「わたしの神よ」ということができる。

 

まとめとして 

 

・神よ、沈黙しないで(2)、わたしの神よ(14)‥‥詩人の神への呼び掛けにより、神が大変身近であることが分かる。神を常に意識している。私を信仰の門へ導いていただいた浜松市の溝口先生、そして現在何かとお世話になっている徳島の吉村先生、この二人を家に迎えた時、近くに神が臨まれているとの感じを強く持つ。二人とも神を常に意識している。キリスト者は、神の前で常に自分の足りなさに気づく謙虚さを持つ者である。自分の力は究極の頼みとならず、神に寄り頼み、神の赦しにより、現在の自分があることを知らなければならない。 

 

祈りは、神の御旨を訪ね、御恵に感謝することより、自分の思いを優先し生活する罪、その罪との戦いである。自分の願いばかりを並べる祈りが正にそれである。始めから自分の願いばかりを並べる祈りは、自分中心であり、神との交流がない。祈りは、先ず自分の罪を知らされるところである。罪が許されて初めて願いが出る。「御心であるならば」「赦されるならば」との低い姿勢からの願いが出るのである。 

 

・苦境のある日常生活が信仰の舞台である。サンデークリスチャンではいけない。日々の生活の苦境の中にあってこそ信仰が試される、発揮される。 

 

・敵に対する姿勢は、憎しみだけではいけない。「彼らの顔が侮りで覆われるなら 彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。」(17)敵であっても神への畏れを回復することを願う。回心、悔い改めを願う。(マタイ5:44) 愛敵の心を持つことが大切であり、難しいことであるが祈りつつ一歩ずつ近づくことである。