ヨハネによる福音書11:1~57      2022.9.25 西澤正文

 イエスは、姉のマルタと妹のマリア、その兄弟のラザロの3人をこよなく愛しておられました。ところが、そのラザロが病気で亡くなられた。イエスは、はっきりと言われた「ラザロは死んだのだ。私はその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとって良かった。何故ならあなたがたが信じるようになるためである。」 イエスは、これから弟子たちの前でラザロを生き返らせる奇跡を行う、それを見ることが出来るからよいと思われたのです。イエスの思いは、深く、常に先のことを考えて行動される。

 イエスは、ベタニアのラザロの墓へ行かれた。この時、墓に葬られて4日経っていた。マルタはイエスを迎えに行った。そしてマルタとイエスの問答が延々と続きました。

 マルタ「主がここに居てくださったら、ラザロは死ななかったでしょう。でも、あなたが神に

     御願いになる事は何でも神はかなえてくださることは、私は今でも承知しています」 

 イエス「あなたの兄弟は復活する」

 マルタ「終わりの日に復活することは存じています」

 

 イエス「わたしは復活であり、命だ。私を信じる人は、死んでも生きる。生きていて私を信じ

     る人はだれも、決して死なない。このことを信じるか」

 マルタ「はい、主よ。あなたは世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じていま

     す」

 イエス「生きていて私を信じる人はだれも、決して死なない。このことを信じるか」

 マルタ「信じております」

 イエスに信頼を寄せるマルタ、その気持ちに応えるイエス。イエスは信頼される人を真正面から受け止められる。「信じるか」「信ずるか」と命令調でマルタの気持ちを確認しています。イエスの真剣で熱い気持ちが迫ってきます。

 こうして二人の会話のやり取りを考えますと、信仰はお互いの信頼関係により成り立つことが分かります。理性的であったマルタもついに主イエスをキリストと仰ぐの信仰を告白するに至りました。イエスの御言を知識として受入れられたのではなく、イエスに対する信仰としてマルタを動かしたのです。これがイエスの全ての人に要求されることです。