ルカによる福音書4:16-44                2018.3.11 
テーマ:「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになる(35)
 幼少時期、ナザレで過ごされたイエスは、30歳となり、その間に知識が深まり、教養が身に付き、見識が広まり、世の善悪が敏感となり、立派に成長された。しかし、幼い時のイエスの様子を一部始終しる隣人たちは、幼い頃のイメージが脳裏に残り、成長されたイエスを純粋に受け入れることが出来ず、昔のままのイメージでイエスを眺めた。
 このことは、ナザレの人々だけでなく、一般的にどの国どの地域も同じであろう。出世して郷里に錦を飾っても幼い頃のイメージで見て、尊敬の念よりも幼少の頃のイメージが固定観念となり成長された人物を素直に受け入れない傾向がある。また、それとは真逆で、仰々しくヒーロー扱いで迎え、オリンピックメダリスト等、町おこしとして一役買ってもらうと、本人もそれを生きと感じ、育ててくれた郷土への恩返しと前向きに考える。
 イエスは、ナザレを追い出され、ガリラヤ地方のカファルナウムに入り、ナザレ同様、安息日に会堂で人々に説教された。その会堂に悪霊にとりつかれた男がいて、わめきたてた。 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ滅ぼしに来たのか 正体は分かっている 神の聖者だ」(34)その男に向いイエスが叱ると、悪霊はその男から出て行った。この出来事を通し、一般の人にはできない奇跡を起こす能力がイエスにあることを示す結果となった。
 我々は、奇跡をどう考えたらよいだろうか。これは、大事な事であり、人によっては躓き、信仰から離れることもある。内村鑑三はこう言われた。「イエス・キリストを神の子と信じる者、人間の姿となりこの世に生まれ、世の罪を除くお方と信じる者は、奇跡を見ても怪しまない。奇跡は神の子に相応しい当然の事である。これだからこそ、キリストはわたしたちの救い主である 信者にとり奇跡の記事はただ然り然りである」と。
 悪霊は、人々よりも敏感に、しかもいち早くイエスの力を知り「ナザレのイエス、正体は分かっている 神の聖者だ」(34)と言った。さらに「イエスをメシアだと知っていた」(41)と言って人々から出て行った。
 悪霊に取りつかれた男は、イエスが現れると同時に現れる。イエスが光であれば、悪霊は影であり、表と裏の関係にある。光の輝きが増せば増す程、影も濃くなる。イエスが活動すれば悪霊も活動する。この世も同じで善人が現れると、悪人も現れる。イエスの行動に対し、悪霊は人々よりも敏感である。それだから「神の聖者だ」と叫ばれた。
 イエスを知り、信じる人は、わが内なる罪を感じるようになり、信仰が深まればますます罪意識が増すようになる。信仰と罪の関係も光と影の関係と同じである。悪霊の出現にアタフタしたり、信仰を捨てりすることがないよう、ただキリスト・イエスをしっかりと信じて歩まねばいけないことを実感する。
🔲まとめとして                
 悪霊は、群衆よりもイエスの本質を見抜いていた。悪魔、聖霊は神により支配され、その支配の下で行動している。このことをしっかり認識しなければいけない。私達は、「神は全知全能者であり、万物の創造者である」ことをどれだけ真剣に疑わず信じることが出来るのか、が問われているのである。