マタイによる福音書24:1-51      2015.11.22
-終末への備えをせよ-
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(32-39節)
  イエスがいつ再びこの世にやって来るか、それは誰にもわからない。神のみ旨によるからである。ノアの洪水は、地の人々の不法な生活振り見た神はほろぼすことを決め、唯一神に従うノアとその家族を滅びの洪水から逃れさせた。ノアが受けた滅びの洪水の時期は誰も予想できなかった。これと同じようにイエスが何時地上に現れこの世を裁くのか誰にもわからない。だから我々は、いつ来てもよいように常に目を覚まし、緊張感を持ち、主を信じる生活を送らなければならない。 
  キリスト信仰の目標は何か、と問われれば、それは終末の時に神の前に赦され、神の民として迎えられることである。赦されるとか救われるとかは、今、この世の災難から救われる、赦されると言うものではない。イエスの十字架により赦されても、この世で悪いことをすれば、罰を受けなければならない。我々は、弱い。何度も何度も繰り返し罪を犯す。その度に十字架の前に出て赦される。そしてまた罪を犯し許される。それを繰り返しながら日々生活している。
  われわれキリスト者の赦しは、この世における赦しではなく、地上の生活を終え神のみもとに行き、神の前に立った時に赦されること、これがキリスト信仰の最大の目標である。イエスは総督・ピラトに「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)言ったことでも理解できる。
  我々の信仰は、終末に焦点を合わせていくものでなければならない。ノアが箱舟に入ったのは、洪水が来るという神の言葉を信じたからである。我々は自分で箱舟を作る必要はない。イエスがこの世に臨まれ新約時代に入った今、我々にとってイエスが箱舟、イエスを信じさえすればよい。イエスの船に乗ること、それに乗りこの世を出ることが私たちの信仰である。但し、途中で船から降りないこと、天国行きの切符を手から離さないことである。これが終末信仰である。洪水が到来することは全ての人に伝えたにも拘らず、多くの人々は自分の経験や常識で神の言葉をまともに信じなかった。ただノアだけがその言葉に従った。現在においても聖書は世の終わりがあることを伝えている。それを素直に信じ終末への備えをするところに、信仰者の姿がある。  
 ▢むすびとして
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35節) この御言葉が、今日の学びのキーワードである。
  毎年毎年、大なり小なり天変地異が繰り返される。この繰り返しによりいつの日か、神のみ旨により、神の裁きにより、地上の矛盾が一掃され滅びる。この世の終末は必ず来る。神の御言葉は、必ず実現されることを信じ抜き、神の御子として天国で神の前に立ちたいものである。