マタイによる福音書18:15-35           2015.9.6
15-20 兄弟の忠告
□イエスは、ここで一人の罪人を救うこと、その大切さを教える。自らが思い立ち、何としても罪人を救いた

い、その思いに駆られ友の所に出掛け、助けることがキリストの愛。愛は理屈でなく具体的行動となる。 「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカによる福音書15: 20) 無一文になった放蕩息子が、心入れ替え実家に帰ることを知った父は、家で息子の到着を待つことがもどかしく、自ら息子のところに出掛け迎え入れたのだった。本当の愛は、人の心を突き動かし直ぐに行動へ駆り立てる。
信仰の友・キリスト者の兄弟が私に罪を犯したら、その友を訪ね、2人だけのところで忠告しなさい。2人だけとは私と兄弟1人であり、迷える羊1匹のため99匹を残し探しに行くと同様、1人の兄弟のために救いださなければならない。見逃すことは神の御心でない。
 忠告されることは、当人にとり快いものではない。人を責めたり、叱ったり、説教したりするのではなく、罪を気づかせ悔い改めることが出来るよう導くことが大切である。 そしてもし1対1の話しの場で、聞かれなかったなら、ごく少数の複数の友によって忠告を、それでも受け入れられない場合は、教会へ行って年配者からも諭していただく、このようにいろいろな方法により、悔い改めるように努めることが大切である。
 更に、忠告しても聞いてもらえないなら、祈ることである。というのは、「わたしの名によって集まる」その所にイエスが居てくださるからである。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(ヨハネの手紙一5:14) 特別、牧師や先生など居なくてよい、イエスの名により真面目な友が集まっている所にイエスが居られるのである。
・「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(20)

21-35 「仲間を赦さない家来」のたとえ
□ペトロは、イエスに「友が罪を犯したら何回まで赦しますか、7回までですか」と問えば、イエスは、「7回を70倍(490回)するまで赦しなさい」と。どこまでも赦しなさい、と答えた。私たちは、自分の受けた損害を忘れ、友を迷える道から立ち返らせることを考えなければならない、これが愛の道と教える。いつまでも自分の被る損害のことばかり考えてはいけない。これはどういうことか? 自分がどこまでも赦されている者、ということ、そのことを忘れないようにしないさい、というイエスの教えである。
 イエスが16:3-4で幼子をたたえ、幼子のようになりなさいとの話があったが、それは、自分は神から赦されなければ生きて行くことが出来ない小さな存在であって、滅ぶべき者であることを知りなさいということである。
 イエスの十字架の死は、我々の犯した罪の身代わりとなり、人類の身代わりになり死んでくださった。ここに十字架の福音の中心的真理がある。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。……もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:12、14-15) 大切なことは、我々は一人ひとりイエスの十字架に神の愛に、事実(信仰生活)を持って応答することである。
・「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(35)

むすびとして
・信仰の友が罪を犯した事を知ったなら、黙っていないで駆け寄り、罪を気づかせ改めさせるよう導きなさい。これが本当の愛。
・キリスト者は、「私は何処までも赦されている者」であることを忘れないこと、また、いつまでも自分の損失にとらわれない。「私は神から赦されなければ生きていけない小さな存在、滅んでしまう存在である」ことを忘れないで信仰生活を送りたい。