マタイ27:1-31                    2016.1.24
-私は罪を犯しました-
最高法院で「死刑にすべきだ」と判決をくだされたイエスは、祭司長、長老たちの手により死刑の決定権を持つ総督ピラトのもとへ連れていかれた。それまで祭司長達と密約し、イエスを逮捕する計画を立て、実行し、実現したユダは、自身描いたシナリオが順調に進み、満足感に包まれたであろう。そのように考えられたが、実際は違っていた。シナリオが進むにつれ自己嫌悪に苛まれ、自責の念に駆られた いよいよ計画が終盤に差し掛かろうとした今、祭司長、長老たちに苦しい胸の内を話した。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4a) この言葉は、今までのユダとは別人の言葉である。きっぱり「罪を犯しました」と話すことのできたのは、神の子・イエスの人間には無い完全なる義、人間には比べようのない深い・広い愛を思い出したのである。それは、今迄12弟子の一員として、イエスと行動を共にし、常にイエスの近くでその姿を拝見し、忘れようにも忘れることの出来ない、強烈なイエス像が心に刻まれていた。それほどイエスから大きな影響を受けたユダであった。その点では、ユダも真面目で正直な人であった。結果としてイエスを祭司長、長老たちの手先となり裏切り行為をしてしまったが、その人達に面と向かい「罪のない人に罪を犯しました」と正直に打ち明けたことは、天国の門に入ることのできた一人に数えられたと信じたい。
普通の人なら、死刑を逃れるために死刑判決する裁判員の前で自分に有利な証言をするであろう。しかしイエスは、死刑を確定する権限を持つ総督から「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されても「それは、あなたが言っていることです」と意に介さない。死刑が目前に迫っても、ジタバタしない。イエスの心にあるのは、神様のみであった。毅然とした態度で最後まで神様の御旨に従う覚悟に包まれた。「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」イエスの姿は、イザヤ書53:7の御言葉そのものである。                                                   いよいよ総督が判決を下す時、妻から「あの正しい人に関係しないで下さい。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」との伝言を受けた。総督・ピラトの妻は、傍らにいて、夫の悩む姿や夫の所に出入する人たちの話しを伺い、イエスが正しい人物であることが確信できたのであろう。裏切ったユダが最後に「罪を犯しました」と言えたのも、長年イエスの近くにいてイエスの正しさを知っていたからである。それと同じ ように、総督ピラトの妻は、夫の近くにいて「イエスの正しさ」が伝わっていたのである。
ピラトは、イエスが十字架上で流す血について、俺は一切関知しない、関係ないと言った。総督は職責を放棄し、自分の命を守ることを優先した。妻の「正しい人イエス」の言葉は、ピラト自身、心の中で抱いて来たことであって、恐ろしくなったのである。 
 最後にイエスは約200人の隊員の前で、ユダヤ人の王に仕立てられ、着せ替え人形のように弄ばれた。王様に変装させられ、体を派手な赤のマントで包まれ、王様の冠を真似し、茨で作った王冠を被せられ、杖代わりに、葦の棒(細く曲がって頼りない杖)を持たせられた。挙句の果てには、イエスの前で、仰々しく膝付き、貧相な王様の姿に似合わず丁重に奉る。そのアンバランスを誇張して楽しみ、徹底してイエスを馬鹿にした。
 一連の拝礼行為を終え、一転して力づくで、本心むき出しで暴行に出た。
イエスの受けたこの一連の侮辱行為、それに対しただ耐え忍ばれたイエス、この光景を思い出せば、我々の受ける苦しみ等は取るに足りないもの、小さくていちいち嘆き悲しむことは、イエスに失礼で申し訳なく思う。
▢まとめとして
・ユダの「わたしは罪のない人の血を売り出し、罪を犯しました」(4)、総督ピラトの妻の「正しい人に関係しないでください」(19)、この2人の言葉は、イエスが義人であることを毅然とした態度で証明するものである。どんなにつらい立場に置かれても、それを跳ね除け、イエスの正しさを堂々と主張する態度に見習いたい。
・イエスの侮辱に耐え抜かれた光景を心に刻みたい。我々は、辛い時、寂しい時に、イエ
スのこの姿を思い出せば、我々の苦難は小さなもの、取るに足りないものと思い、どんな苦難に直面しても乗り切ることが出来るように思う。