ロマ書7:1-25                  2016.11.20
主題:わたしはなんと惨めな人間なんだろう(24節)
古い夫であった律法は死に、新しい夫はキリストとなる(1-6節)
    あなた達は、古い夫である律法の束縛から離れ、ほかの人、すなわち死人の中から復活された方、新しい夫キリストのものになった。律法からの解放は、イエスが十字架上で息を引き取られた瞬間の出来事、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51-52)この出来事を思い起こすことができる。イエスは私達の罪を贖い十字架上に死に、自分の十字架を背負い求める人の救い主となられた。
律法は罪でなく聖であり善(7-13節)
 律法は罪でなく、私達に罪を知らせるものである。律法は私たちに罪とは何か、を知らせてくれるもので、そこに律法の大きな役割がある。イエス・キリストが十字架について死んでくださらなかったら、何時まで経っても自分の罪を背負っていかなければならなかった。その罪を代わって背負ってくださった方がいたという事実は、私たちに大きな喜びを与えられた。 
私はなんと惨めな人間なんだろう(14-25節)
 私は肉的なものの存在で、奴隷として売られ罪の支配下にいる。罪の命じるまま動くだけで、自分のしていることは知らない。それをしているのはもはや、この私ではなく、私の中に住み込んでいる罪である。私の肉の中には、何一つ善いものが住んでいないことを知っている。良い事をしたいと思う意志は常にわたしにあるが、悲しいかな、する力がないのである。思う善いことはせずに、思うわない悪い事ばかりをする。したくないと思うことばかりをしているのだから、それをしているのはもはやこの私でなく私の中に住んでいる罪である。私の中に二つの私が居て、神の法則を喜ぶ内の私と、罪の法則を喜ぶ外の私が居る。その神の律法を行おうとする私の理性の法則と戦って、体にあるこの罪の法則の捕虜にすることを経験する。私は惨めな人間である。私は理性では神の律法に仕えているが、肉では罪の法則に仕えている。
まとめとして 
 律法により罪を知り、罪から離れたい、罪を悔いたい、切に願うために苦しむほどのあがきが必要である。自分自身の中に巣くう罪をしっかり自覚し、何としても神により罪を赦していただけるよう悶えるほどに、切に願う信仰を持ちたい。何と惨めな人間なんだろう!と心からの叫びをしたい。神様はそのもだえるほどの姿を切に待っておられる。