ロマ書13:1-14                 2017.2.19

 テーマ:上に立つ権威に従いなさい(1)

 1-7この世の支配者は神に従う者

 ・人が神を信ずる、信じないにかかわらず、この服従の義務は普遍的である。特に基督者は、善悪に対する感覚が敏感で、神を地上の全ての王の王であるとの確信を持っているので権力階級に対し、批判精神を持つ傾向があり注意を与える必要があった。何故なら権威の拠所が神にある事、権威者をその職に任ずる事も神の為す事だからである。

 先のアメリカ大統領就任式のようすがTVで報じられていたが、トランプ新大統領も聖書の上に手を置いた。就任に当たり国民のために捧げることを神に誓った。パウロは、国権、及び国権保持者を神の御手の中にあるものと考えた。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(1a

 ・パウロは、神を信ぜず基督教を迫害するロマの政府ですら、これにさからうは神の定に反すると考えた。権威に対する服従は、基督者の社会生活の最も重要な一面である。権威に反する人は、神の審判を免れられないのは当然で、社会のルール(法、決まり事)を破る人は、時の権威者の裁きを逃れることはできない。「従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」(2)

 ・権威はその本質として善行を奨励し、悪行はしないよう戒めることを目的としているのは、全世界の普遍的事実である.。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」(4a

 ・基督者はみだりに権威者を恐れてはならないが、悪い行いをしても恐れないのは、権威者を軽蔑することになり、そうなれば、裁きは必ず来るので恐れなければならない。律法による裁きは逃れることはできない。しかし、もし悪を行えば、恐れなければならない。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いる。(4)

 ・租税を納める事は信仰的にも良心の問題であって、決して権力に対する恐れにより止むを得ないという行為ではない。それは、権威を持った者は、神に仕える者、その職に熱心に仕える為であって、租税は神に対する信仰より払わるべきものである。たとえ異教の支配者の下にある場合でも同じことである。あなたがたが貢を納めているのもそのためである。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいる。(6)

・支配される者は、凡ての支配者に対して償うべき義務を持つ。支配者は、神に仕える者としてその務を励むからである。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい、貢を納めるべき人には貢を税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ敬うべき人は敬いなさい。(7)

  ここで組織を維持することの困難性について考えたい。国家、県・市等地方自治体、民間企業等など、多数の人が集まり、様々な分野、諸々の目的達成のため機能する組織、この組織を維持し発展させること……部外者が外で眺め自由に意見すること、それはそれでいいが、批判する人達が当事者として組織を維持できるか、と言えば簡単なことではなく、想像以上の困難がある。パウロは、「上に立つ権威に従いなさい」と言うのも、それなりの重み、実績、理論が蓄積されており、敬意を払う気持ちの現れである。神はそのことを見通され従いなさいと言われる。共同生活を営む社会は、公的義務を果たす中で、お互いに助け合いながら生活共同体を保っている。‶共に生きる″人間社会のルール化を図りつつ、常によりよい社会作りを目指す合意の形が組織である。

□まとめとして―上に立つ支配者と神との関係について―

 イエスは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」との質問に対し、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイによる福音書22章21節)と答えられている。世の権威者と神の違いは何だろうか。

 ①権威者のものと神のものの区別の明確化の必要……偶像礼拝の禁止

  権威者に服従するとしても、神のものまで求められた場合は、拒否せざるを得ない。「神のものは神に返しなさい」と言われている。神のものとは、具体的には、世の権力者が自分を絶対化して神とすることによって求めること、支配下にある人間に、本来、神に帰すべき賛美と献身を自分に求めたり、絶対無条件の服従(例えば召集令状)を要求したりする時は拒否しなければならない。ただし、拒否するにしても、暴力を用いて抵抗するのではなく、権力が正義を行えるように、また、相手のために神の祝福があるよう祈ることである。

②神により創造された人が、神により創造された他人を殺すことの禁止 

  国と国の交戦=戦時下になった時、世の支配者ではなく、支配者の上に立つ神の側に立つことを選び、十戒の「汝殺す勿れ」の教えに従い、戦争反対の態度をはっきりさせることである。