ルカ15:1-32                  2018.11.18
テーマ:死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった(24、32) 
 ここで、イエスは、三つの悔い改めのたとえを話された。イエスの話を聞こうと徴税人、罪人が近くに集まったが、そこにファリサイ派の人々、律法学者が不平を言った。その不平に対するイエスの3つのたとえ話である。
第一は、見失った一匹の羊、第二は、無くしたドラクメ銀貨一枚、第三は、いなくなった息子、これら失ったものがすべて見つかった。どうしてだろう? それは悔い改めることが出来たからであろ。特に、三つのたとえの中心は、第三の放蕩息子のたとえである。
・見失った一匹の羊
  迷わない九十九匹をその場に残し、一匹の羊を探しに出掛け、見つけ出した。見つけたら喜びのあまり肩にかけて家に帰り、友人、近所

 の住人を集め共に祝う。それほど嬉しいことだ。それと同じように、迷い出た一人の罪人が、心を入れ替え神様のもとに帰ってきたら、少

 しも迷ったことのない九十九人を合わせたよりも大きな喜びが天にある 
・無くした銀貨一枚
  明かりをつけて見つけやすくし、家中を掃除し、見つけるまで探そうと必死であった。その成果があって見つけ出し、友達、近所の人を

 集め喜び合う。その喜ぶ姿が浮かぶ。それと同じように、一人の罪人が罪を悔い、神のもとに帰ってきたら、ここにいる九人を合わせたよ

 りも、神の使いたちは大喜びする。
・見つかった息子
  遺産を使い果たした弟は、「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と言ったが、 その弟が資格を回復した。神の前に資格を

 失った者に資格を与えてくださるのがイエスである。自分には資格のある者と思う者は、傲慢があり、自分の罪深さに気付いていない姿が

 ある、とイエスは指摘する。恵みを受ける資格が失われていないと思う兄は、父の福音を理解できなかった。
 私たちは、神から愛されたり、赦されたりする資格のない者であることに気付くところから、福音を喜ぶ生活が生まれる。イエスによらなければ、私の救いはないという信仰が生まれる。
 兄は律法的立場から離れることができなかったからである。律法的立場にある者は神の恩恵を知らず、「罪が増したところには、恵はいっそう満ちあふれました。」ことを知らない(ロマ5:20 P280) 自身の罪を感じる者でなかった。それだから、弟の罪を責め、父の恩恵を非難した。
 大切なことは、罪を赦された弟の方が、正しい兄よりも遙かに幸福なる人間となったことで、幸福は、自分の所有や自分の道徳にあるのではなく、神に立帰り神の愛に生きることである。
▢まとめとして
 今日のイエスのたとえの主人公は、迷った一匹の羊でなく、悔い改めた放蕩息子の弟ではなく、放蕩息子の兄、ファリサイ人・律法学者である あなたは、このような人になるなというメッセージである。
 自分に寄り頼み、力むばかりの生活でなく、力を抜き、リラックスして生活しなさい。
柔らかな心を持てば、他人の気持ちを推し量ることが出来、豊かな人生を過ごすことが出きる。我々も心に余裕のある人に引き付けられ、自然とそのような人に近づく。  
 主はそのような人のところにやって来る。福音の種もそのような人のところに蒔かれる。
「ごめんなさい」といえる人は、心の入れ替えることのできる人であり、私たちも自分に頼らず、素直にまた直ぐに「ごめんなさい」といえる人になりたいものです。