ローマの信徒への手紙14:1-23           2017.2.26
テーマ:キリストはその兄弟のためにも死なれた(15)
 14章は、教会内の会員同士の交わりについて述べる。人はそれぞれ、個性、特性がある。従って、他人を批判してはいけない、裁いても行けない。ただ在るがまま受け入れなさい、これが全体の要旨である。
1-12 共に生活しなさい
①「食べ物」(2-3) 野菜しか食べられない人、何でも食べられる人、と人により様々である。何でも食べられる人は、野菜しか食べられない人を批判してはいけない。批判する人は、強者の立場に立つ人で、「上から目線」で人を見ていると言える。
②「他人の召使」(4) 他人の事を干渉してはいけない。基督者は、皆キリストの僕であって、キリスト者の僕ではない。キリストの御心に叶うならば、他の人々がこれをかれこれ言う必要もなく、また、その権限も無い。クリスチャン同士は、対等の関係で、他の人を認め、干渉しないことが良好な関係を保つ。
⓷ある日を尊ぶ人、すべて同じ日と考える人(5-6) 
 「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」(ガラテヤの信徒への手紙 4章10節 P347)
  日の問題は、各自が判断すればよい事であって信仰の本質でない。特定の日を尊ぶ人、日はすべて同じと考える人、この二つの意見は、異なる。しかし、主は、この中のどちらかでなければならぬとは言わない。大切なのは、その人の心であり、「主に従うためには、かくあるべし」と自分の心に決めて行う事が何よりも貴い。各自の確信により決めれば良い。(5b)異なるからと批判し合ってはいけない。確信は、主のためにする事である。
〇まとめ
 終わりの日、人は一人も漏れることなく、主の前に立ち裁かれる。(10-12)自分の人生について「私はこう生きてきました」と、弁明しなければならない。他人同士で裁き合うことは、主が見えていない人であり、キリスト者でなく、この世の人といえる。我々は一人ひとり、確信に基づき、態度を採らなければいけない。確信の決定は、自分の人生のためでなく、神のためである。生きるも死ぬも神のためである。(8)人それぞれ選択が異なっても、最終的には兄弟同士、神の前に集まり、一つにまとまる。なぜなら、この世を去り天国に行けば、そこにおられる神の前に独り立ち、地上の信仰生活について証しを求められるから(12)「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(コリントⅡ5:10 P330)
13-22キリストはその兄弟のために死なれた
 裁き合わないように(13)⇒兄弟を何故裁くのか(10)を受けて述べている。確信がある=主に結び付いている。確信がない=主に結ばれていなく、疑いながら行う神への完全な信頼がない人である。裁き合うなら、その前に他人が躓くその原因となるものを除去しなさい。パウロのとても大切な考えである。信仰の強い人者も弱い人も、互に裁き合わないだけでなく、更に愛を以て行動しなければならない。信仰の弱い人の前に妨害、躓きとなる物を置かないようにしなさい、特に信仰の強い人はこの点に注意が必要である。
 食べ物で兄弟が躓くなら、あなたは愛に従って生きていない、食べ物のことで兄弟が悩むなら、あなた自身の兄弟への愛が問われる。全ての物は天の恵みであって潔い、だから、これを食べる事は自由である。しかし、他人の心を無視し、他人がこれによって蹟き、信仰を失う事も考えず、自分の欲望を満たすために食べることは、悪である。そこには、愛が無いからである。ただ、全ての食べ物その物は、汚れがなく清いものであると考えても、兄弟を躓かせないため、肉食、飲酒を口にしない行為は、立派な行為である。これは、信仰の強い人が、信仰の弱き人に対する愛の行為であるから。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせ
ないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」(コリントⅠ 8:13 P310)
▢むすびとして
 「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのである」(15b) イエスが十字架に架けられたのは、「私のため」であったと思い感謝する。しかし、「あなたのため」にとは中々思わない。あんな人のためにも、と想像し辛い人のためにもイエスは死なれたのである。個人的にどうしても性が合わなく無意識の内に距離を持ってしまう人……そんな人がいないだろうか? その様な「思いたくない人」「思い出したくない人」のためにもイエスは、十字架に昇られた。イエスの御業、犠牲の大きさを、そして愛の深さを改めて思い起こしたい。