ルカ9:37-62                   2018.6.24
テーマ: 鋤に手をかけてから後ろを顧みるな(62)
 イエスは、弟子たちに悪霊に打ち勝つ権能を授けたにもかかわらず、悪霊を追い出すこと
ができなかった不信仰を嘆き、また、再び死の予告をしたにもかかわらず、誰が一番偉いかと議論をする姿に接し、イエスの心は本当に寂しかったでありましょう。
 9章最後には、弟子たちにイエスに従う覚悟を語られました。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9:23)と同じ内容です。 
 イエスは、神の国の福音を伝えるため孤独な闘いに耐え、家族の絆を断ち、一刻を争い各地を訪ねました。同行する者に同じ覚悟を要求され、「人の子には枕する所もない」と話されました。
 また、「父を葬りに行かせてください」と申し出る者に対し、「死んでいる者たち(イエスを信じない人たち)に、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を宣べ伝えなさい」と。葬式よりも福音宣教を第一とする姿勢が何よりも大切であると伝えています。
 最後に、「家族にいとまごい(別れの挨拶)に行かせてください」と迫る人に対し、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と述べています。わたしに従うと決めたなら、脇目を振らず一心に、一点のみを見つめて前進しなさい、と言うことです。目前に迫った十字架が、イエスにこのように言わしたと思います。
 イエスのこの話の根拠は、新・旧約の二つの戒めからと思います。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20:3)「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカ10:27) 唯一の神だけを信じなさい、この世に心奪われるな、この世に浮気するな、とにかく、理屈を封印し、まず信じなさい、徹底的に、全てに優先して信じなさい、命をも委ねなさい、との強い思いからです。 
十字架は死を意味しています。その「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」とは、イエスに命を預け、死をも恐れなるな、を意味しています。 
 イエスの十字架上の死により、私たちの罪は一方的に赦されました。これ程の深い愛がほかにありません。この愛を頂かなければ、自分の十字架を負うことはできません。イエスの十字架の死は自分のためになされた、という自覚が必要です。イエスの愛は、罪深い私たちにとり、深く、かけがえのないものです。
 イエスは弟子と共に、各地に神の国の福音を伝える途上で離されていますが、このことをお思い起こしますと、イエスがこの世に誕生された喜び、福音伝道の大切さが、改めて伝わってきます。
▢まとめとして
 罪を犯す弱い人間の私たちは、イエスが十字架に召されてその罪を赦してくださいました。この喜びに応えるため、神、イエスキリストの深い愛に後押しされ、勇ましくイエスに従うことのできる者でありたい、と切に願っています。